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ノンデュアリティ⇨アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(シャンカラその2)岡本直人「はじめての非二元・ノンデュアリティ」

ノンデュアリティ⇨アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(=不二一元論・シャンカラその2)岡本直人「はじめての非二元・ノンデュアリティ」

 したがって、それらの変容物は言葉によって、名称によって捉えられているにすぎない。壺、皿、椀などの変容物は、単に言葉によってのみ「ある」と認識されているにすぎない。しかしながら、実際には変容物は存在しない。なぜなら、それはただ名称にすぎない幻想的なものであり、土であることのみが真実であるから。このことがブラフマンについての比喩として天啓聖典で述べられているのである。

シャンカラ「ブラフマスートラの注釈」より
本書より

ボクらは、壺、皿、椀などを、「ある」と認識しているけれど、全部「土」じゃん、っていうのが、シャンカラさんの言いたいことなんだよね。

でもだからといって、それで、この世界が幻想だ、って言うのは、論理が飛躍しているようにオレには思えるなぁ・・・。

でも、「土」も知らなかったら?

あっそっか!?「土」というか、あらゆる言葉を知らないのなら、「何も捉えられない」んだから、この世界が幻想に思えてくるね。

あらゆる言葉を知らなかったら、やっぱり幻想を見ているに過ぎないんじゃないの?

赤ん坊は悟っている?

また、この話かと思うかもしれないけれども、精神世界では、よく、赤ん坊は悟っていると、言われることがある。

なんでだっけ?

赤ん坊は言葉を知らないからだ。

言葉を知らないとすれば、赤ん坊は「何も捉えられず」、幻想の世界を見ていることになるよね。「土」はおろか、全ての言葉を知らないんだからさ・・・。悟ってるじゃん。

だから、赤ん坊は、見るもの=ブラフマン=アートマン=真我になってるよね?

赤ん坊の頃に帰れってことじゃないんだよね?

だからって、赤ん坊の頃に帰れってことじゃないんだよね?

ボクらは、言葉で幻想を見ているってことを、知ることが大事だということだ。

うーん、そうなのかー。

ただ、注意してほしいのが、ブラフマンはやっぱり万物の根源ではあるので、この世界は、ブラフマンによって、創造されていることは、事実であるという点だ。でも、言葉によって識別されている世界は幻想だよね?ってことだ。

一応、ブラフマンによって、世界は作られているんだね。

次回もアドヴァイタについて書くよ!!

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