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ボクは本当に悟ったのか?悟り続けるには?シャンカラ「ウパデーシャ・サーハスリー」

ボクは本当に悟ったのか?悟り続けるには?シャンカラ「ウパデーシャ・サーハスリー」

ボクは、「汝それなり」を悟った、と思っている。以下関連記事。

しかし、以下の「ウパデーシャ・サーハスリー」の文章を読んで、ギョッとした!

 もし無明が再び生じないならば、「私は有(=ブラフマン)である」という認識があるのに、「〔私は〕行為主体である」「〔私は〕経験主体である」という観念がどうして生ずることがありえようか。それゆえに知識は補助するものをもたないのである。

シャンカラ「ウパデーシャ・サーハスリー」第1章19節

「私は有である」というのは、「汝それなり」と示していることは同じで、「アートマン=ブラフマン」ということだ。

だったら、「汝それなり」を悟ったなら、「私は行為主体である」「私は経験主体である」という観念も消えてるはずだね?実際消えてる?

キミもそうだと思うけれども、ボクは実際消えてない・・・。

ボクは本当に悟ったのか?

ということは、本当に、「汝それなり」を悟ったのかという疑念が生じるよね。

困ったなー。

「もし無明が再び生じないならば」という仮定付き、ということは、オレらは、無明が再び生じていることになるよね?

やっぱり、行為主体・経験主体ではない、というところまで、自分を落とし込まなきゃいけないんじゃないか?

やっぱり、行為主体・経験主体ではない、というところまで、自分を落とし込まなきゃいけないんじゃないか?

無明が再び生じているのを止めるということだよね?

それにはどうすればいいか?内省してみた。
①意見=汝それなり
②経験=行為主体・経験主体ではないはずなのに、なってしまっている
③感情=残念・焦り
④価値観=精神性(スピリチュアリティ)

内省してみてどうだった?

以前悟ったときほど、深く内省状態に入れなかったけれども、以前悟ったときの状態を思い出して追体験してみた。

でも、日常生活で、常にそれをやるわけにもいかないじゃん?どうするの??

そこで、ラマナ・マハルシさんが言ってたことを思い出したんだよね。

解脱とは、真我に気づき続けることでしかありません。(中略)

ラマナ・マハルシ「真我」より

コレにヒントを得た。日常生活でも、真我に気づき続けることはできるよね?

真我に気づき続けるのか!?その方法があったかー。

「真我に気づき続ける」ことを2時間以上実践した結果。

この下書きを書いてる途中、用事があったので、2時間ほど外出した。その間中、ズーッと真我に気づき続けていた。帰ってきてからまた下書きを書き始めたんだけど、ズーッと気づき続けている。

感想は?

結構キツイ!あまりにキツイので、もう行為主体・経験主体とかも考える余裕が無くなった。そして、「沈黙」もするようになった。気づき続けることに手一杯で、話す気力もなくなった。

まあ、結果的には、行為主体・経験主体という観念が消えたんだから、所期の目標は達成したじゃん。

ラマナ・マハルシさんが、「沈黙」も重視したのは知ってたけれども、こういうことだったのかなぁ?(疑問!)。この下書きを書き終わってからも何日も真我に気づき続けるんだぜ?!キツイよー!!(泣)。でも、わかりやすく言えば、心の平穏?みたいなものは確かにあるんだよね・・・。

ChatGPTによれば、①深い平安、②無条件の喜び、③愛と共感、④自由と解放感、⑤全体性の感覚、なんだって!これだけ得るものがあるんだったら、多少キツクても、真我に気づき続ける価値はあるんじゃないかな?

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