夢見の状態のときには真我は見て思惟している?シャンカラ「ウパデーシャ・サーハスリー」
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夢見の状態のときには真我は見て思惟している?シャンカラ「ウパデーシャ・サーハスリー」
シャンカラ著「ウパデーシャ・サーハスリー」には以下の二つの記述がある。
これって、一見矛盾しているよね。
第13章1節では、アートマンは見ない・聞かない・思考しないと言っておきながら、第14章26節では、アートマンは見ること・聞くこと・思惟すること・認識することを本性としている、と言っている。
この点の矛盾を、またいつものように、ChatGPTさんに聞いてみた。
ChatGPTに聞いてみた。
プロンプト:「目がないから、私は見ない。同様に、耳のない私が、どのように聞くことがあろうか。言語器官を持たないから、私は語らない。意(思考器官)を持たないから、どうして思考することがあろうか。」 ウパデーシャ・サーハスリー第13章1節と、「人々は、つねに、夢見状態で、見ること・聞くこと・思惟すること・認識することを経験する。それらはアートマンを本性としている。それゆえにアートマンは直接的に知覚される。」 ウパデーシャ・サーハスリー第14章26節、この二つは矛盾しているが、どう解すればよいか?
ChatGPTの回答:
ウパデーシャ・サーハスリーのこれら二つの節は、一見すると矛盾しているように思えるかもしれませんが、実際にはアートマン(真我)の性質を異なる視点から説明しているものです。この矛盾を解消する鍵は、アートマンの究極的な超越性と、現象世界におけるその顕現(現れ)を理解することにあります。
1. 第13章1節:アートマンの超越性
「目がないから、私は見ない。同様に、耳のない私が、どのように聞くことがあろうか...」 この節では、アートマンが身体的・精神的な器官に依存しない存在であることを強調しています。目、耳、言語、思考などはすべて現象的(相対的)レベルのものです。アートマンはそれらの器官や機能を持たず、むしろそれらを超越した「純粋な意識」であり、それ自体は行為を行う主体ではありません。
ここでのアートマンの理解は、完全な無属性(ニルグナ)の観点から説明されています。つまり、アートマンは「見たり、聞いたり、語ったり、思考したりする」ような限定された存在ではないということです。
2. 第14章26節:アートマンの顕現
「人々は、つねに、夢見状態で、見ること・聞くこと・思惟すること・認識することを経験する...」 この節では、現象的な経験の中にアートマンが基盤として存在していることを述べています。アートマンは、見る・聞く・思考するといった経験の基盤となる意識そのものであり、それらの行為が可能になるのは、アートマンがその本質として存在しているからです。
しかし、ここで重要なのは、「見ること・聞くこと・思惟すること」を行っているのは身体的な器官や心(マナス)であり、それらを支える根本の光(意識)がアートマンだということです。アートマンそのものが直接的に「行為者」ではなく、「行為を可能にする背景の存在」なのです。
矛盾の解消
この二つの節は、アートマンの二つの側面を指しています:
超越的な側面(13章1節)
アートマンは行為や器官に依存せず、それらを超えた絶対的な存在である。内在的な側面(14章26節)
アートマンは現象的経験の背後にある基盤として、常にその存在を感じ取れる。
これを「二重の視点(ドヴァイタとアドヴァイタの統合)」として見ると、矛盾は解消されます。現象的なレベル(夢や経験)ではアートマンは顕現し、全ての行為を可能にしますが、究極的な真理のレベルでは、それらを完全に超越した無属性の存在として理解されます。
補足:二重の真理(サッチャムとミティヤー)
仏教の二諦説に似ていますが、ヴェーダーンタでは現象的真理(ヴィヤーヴァハーリカ)と究極的真理(パラマールティカ)の区別が重要です:
現象的真理ではアートマンは経験と深く関わり、その本質として認識されます。
究極的真理ではアートマンは無属性の純粋な意識として、経験を超越しています。
これを理解することで、この二つの節のメッセージは統一されます。
やっぱりアートマンは見ない・聞かない・思惟しないんだけど、背後にある基盤である。
このChatGPTの説明を、一言で言えば、やっぱりアートマン自体は身体的な器官でもなく心でもないために見ない・聞かない・思惟しないんだけど、その根本となる全てを照らす意識であり背後にある基盤である、ということなんだね。
しかし、ウパデーシャ・サーハスリーも、結構難しいね。
そうだね。たまにわからなくなるので、AIを適宜利用して、理解に努めている。
おまけ。ChatGPTにさらに聞いてみた。(読者のアナタは読まなくていい。)
プロンプト:でも、夢見状態では、やっぱり、見ていて・聞いていて・思惟していて・認識してるんじゃないの?
ChatGPTの回答:
鋭い指摘ですね。その通り、夢見状態では「見る」「聞く」「思惟する」「認識する」という活動が確かに行われています。しかし、その行為の主体やそれがどのように起きているのかを深く考えると、この活動はアートマン(真我)の観点から見ると少し異なる意味を持ちます。
1.夢見状態における経験の性質
夢見状態では、実際に「見る」「聞く」「思惟する」「認識する」といった活動が起きていますが、それらは次の特徴を持っています:
相対的な現実(ミティヤー):
夢の中での経験は現象的なレベルで「リアル」ですが、目覚めた後には「幻想」であったと認識されます。このように、夢見状態の経験は持続的なリアリティを持たないものです。
主体と対象の非分離性:
夢の中では、見ている主体と見られている対象は、同じ意識(アートマン)によって投影されたものであり、実際には分離していません。
2.アートマンと夢の関係
夢見状態で「見る」「聞く」などの行為が行われているように見えるのは、アートマンが意識の基盤として作用しているからです。しかし、その行為の主体が誰なのかを深く分析すると、次のような理解ができます:
見る主体(行為者)は実在しない:
夢の中で「見ている」という感覚は、心(マナス)が働いているだけであり、アートマン自体が行為者になっているわけではありません。
アートマンは純粋な目撃者(サークシン):
夢の中で起きるすべての経験を支える「意識そのもの」がアートマンです。アートマンは夢の内容や行為に巻き込まれず、それを照らし出しているだけです。
3.夢見状態を究極的視点から見ると
夢の経験は、現象的には「見ている」「聞いている」などの活動を含みますが、アートマンから見ると、それは以下のように理解されます:
夢は心の投影:
夢の中の「見ている」という行為も、夢の「対象」も、すべて心の創造物です。それらはアートマンによって照らし出されているだけで、アートマン自体が夢を「作り出している」わけではありません。
行為と行為者の分離の崩壊:
夢の中で見ている主体(夢の中の自分)と、見られている対象(夢の対象)は、本質的に分離していない。それらは一つの意識の中に現れています。
4.夢見状態の「見ている」と第13章の主張の調和
第13章の「目がないから、私は見ない」という主張を夢に適用すると、「見る」という行為そのものがアートマンに属しているわけではなく、むしろ心(マナス)の働きとして現れているということが分かります。しかし、それを可能にしているのは、アートマンの存在です。
つまり、夢見状態で「見ている」ように見えるのは現象的真理であり、その基盤にあるアートマン自体は、超越的真理として一切の行為を行いません。この理解が、矛盾を解消する鍵です。
まとめ
夢見状態における「見る」「聞く」などの経験は、心が作り出す現象的な動きにすぎません。アートマンは、それらの経験を照らし出す意識そのものであり、行為を直接行う主体ではありません。このように、夢の中での経験はアートマンによる超越的存在としての「目撃」と、心による現象的な「行為」の二重性を示しています。
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