十和田 未知

舞踏の聖地鎌鼬の里で踊り語る。 今の、私のモノガタリ。みんなのモノガタリ。

十和田 未知

舞踏の聖地鎌鼬の里で踊り語る。 今の、私のモノガタリ。みんなのモノガタリ。

最近の記事

無理くりこじ開けず、ただ自然にはまっていくような生き方

25歳 ありのまま、本心で生きて良いことを知って 喜びに溢れた 26歳 そうやって生きていない人ばかりに思えて 世界に絶望し、それができていない人を非難した 世界を、人を変えようと思った 見渡すと、周囲から人がいなくなっていった 27歳2日目スタートから55分 人を変える、その考え方を辞めた 人を変えるのではなく、 必要とする人に必要なものを用意しておく そうしようと思った 私はただ、活き活き生きる人がそのままでいられる場所をつくるだけだ そういう

    • 生き切る、という意味が前よりひとつ、深まった。

      25歳 本音でありのままで生きることの素晴らしさを知った。 あらゆることが、こわくなくなった と思った。 そのありのままは、少し野獣で子供で歪だったけど、 その生き方は もぎたて5秒! みたいに、青青として、みずみずしくて 生きているエネルギーみなぎっていた。 26歳 それがだんだんと、荒々しくなって 粗雑な感じが強くなった。 あらゆる大切なものの、何を大切にしていいのかわからなくなって もがいた。 その中で沢山、人もわたしも傷つけた。 きっとこ

      • 彼の、目が教えてくれる。

        彼は、生きづらそうだった。 いつも、自分をかばっているように見えた。 わたしも、そういう部分があるから 彼のそこを見ると なんだか救われない悲しみが滲んでくるんだな。 もっともっと、彼に救われてほしいと思った。 そんな彼を変えたかった。 たぶん、わたしは自分自身を救いたかったのだ。 久々に、彼に会った。 ハッとするほど、 瞳が美しかった。 ハッとする、ほどに。 あぁ、そうか。 わたしは彼から出てくる言葉以上に その瞳を信頼していたんだな。 目は、

        • ただ、こうやって当たり前に生きていたい。

          わたしは 当たり前に、心踊るような服を着たい。 美しいメイクをして着飾ると 気持ちも喜ぶ。 当たり前に、喜怒哀楽があるから、 なんでもかんでも引き受ける そういう、いい子ちゃんでいることに 価値を見出せなくなった。 わたしには、わたしの人生をよくする 責任があるのだから。 当たり前に、人もわたしも活き活きしてくる ような人付き合いをしたい。 当たり前に、好きな人と嫌いな人がいる。 だけど、嫌いな人も わたしといる時はわたしが嫌いな面が 好きな人も

        無理くりこじ開けず、ただ自然にはまっていくような生き方

          わたしの夢は、そのままいきれる集落創って棲むことだ。

          現代は 純粋に、人生を本質的に生きようとするほどに 我慢しなきゃならないような あらゆる枠組み敷かれてしまって どうして純粋な人がいちはやく その歪みの中を、歯を食いしばって 人からは非現実的だと、 夢想家だと言われながら 生きなきゃならんのか。 私たちは、誰よりずっと 現実を見て、それを目をひん剥いてみてきて それで今の現実があまりに歪んでいるから そこに立ち向かって 生きているのだ。 変人でなくて、 ただこの世界で生きるに、真っ当すぎる。

          わたしの夢は、そのままいきれる集落創って棲むことだ。

          清らかなカマキリの死に目に遭って。

          初めて、稲刈りを手伝った。 その中で、私は見つけてしまった。 身体の、ほとんどの内臓部分がすっぱりと切られてしまっている カマキリを。 まだきっと切られてから、5分と経っていない そのカマキリ。 稲刈りの時に、機械がスパッと切ってしまったのだろう。 いのちがながらえるのに、必要な ハラワタが身体からどろりと出ていて その中で、その中で それでも、生きていた。 そっと、稲から身体を持ち上げて 人が足を踏み入れられない草原に放した。 もう息絶えようとして

          清らかなカマキリの死に目に遭って。

          現実と芸術を紡いで自分の物語はできていく。

          現実と、芸術はそれぞれ糸で それらを紡ぐのが自分。 紡がれていくのが、人生。 芸術の糸だけでも、現実の糸だけでも 自分という物語は紡がれないのだろう。 現実の糸だけで生きてしまうというのは、 盲目的に生きているのだ。 恐怖によって、頭が固められてしまって 人が新しいことを生み出すのは とても自然なことなのに それがストップして ただ時のみが過ぎていくので それでもそれを人生だと勘違いしてしまうのだ。 芸術の糸だけ。 これは、本当はあり得ない。 芸術

          現実と芸術を紡いで自分の物語はできていく。

          かばわなくても平気な私でありたくて。

          あたしの文章って なんて、自分をかばってるんだ。 自分をどこまでも正当化したくて でもそんなことをしたいってのは それほど、自分を許せない自分がいて。 わたしよわたし。 自分はそんなに駄目ですか? 自分にこんなにも認められない自分が かわいそうになってくる。 そんなにかばわなくとも、 まぁまぁやるだけやってるよ。 そう言ってやりたい。 証明しなくとも、そこにあるものを みんな見つけてくれると信じていて。 大丈夫。わかるから。 わかってるのだから。

          かばわなくても平気な私でありたくて。

          ゆらぎ。それは、丁寧に生きて、怒ること。

          わたしは、人の言動の 違うと思ったことを言うとする。 それを伝えたら、多分その相手は傷つく。 反抗する人も涙する人もいる。 なんのため、なんのために 私はこんなことを言っているんだろう。 分からなくなる。 自分でも言うのが嫌でたまらない。 でも、言いたい。 これはとてつもないエゴイズムなのか。 相手もそれを言われたら ぐっさりと刺さってしまう。 そういうことを言うのが躊躇われるような 今のご時世柄もある。 なんのために。 無作為に言えばいいっても

          ゆらぎ。それは、丁寧に生きて、怒ること。

          うっぷん貯金の荷下ろしを、今ここから。

          薄ぼんやり。 反抗しないひとが、素晴らしい人です。 そうやって小さな頃からしつけられてきた私たちは 反抗することが全く自然じゃなくて 異世界の住人 尾崎豊 が、あまりに鮮烈で美しく見えて。 誰にも好きだと言わないが お酒を飲んだついでに 尾崎豊 の文字が 指先からデンモクに滑るように紡がれていく。 誰一人にも、嫌な雰囲気 つくりません。 反抗しないでいるお得さを、 学校では学びました。 頭を使うのは、コスパが悪いから まず答えを知ってから、それをなん度も覚え込ま

          うっぷん貯金の荷下ろしを、今ここから。

          全力で生きて。どうせ愛にぶつかる。

          みずみずしく、澄み渡った空。秋田。 眼下にはもちろん、一面の稲穂で眩しいきいろ。 その周りで声にならない部分となる部分のどちらも混じる音を発しながら、私はただ人に語りかける、そういう踊りをしています。 生きることの素晴らしさを味わい尽くしている人が世界にどれだけいるのだろうか。 私は11歳から26歳にわたる自分の人生ぜんぶをかけて 幸せになること そして、 幸せとはなんなのか を研究し続けている。 あれは中学2年生。突然、髪を切られるようないじめ。全校集会では大声

          全力で生きて。どうせ愛にぶつかる。

          ケータイと私の間に生まれた愛

          デジタルデトックスが、大好きだった デジタルがあると自分の時間は寸断される 無我夢中がぶつん、と そういうイメージが強くてね それで数日間ケータイ見ないで自然の中に自分を放り込むようなことをしたりして その中でみるみる自分の中、地底に眠っていたあらゆるエネルギーが目を覚まして起き始める そういうことを体感した 例えると、 今までのわたしは、あらゆる情報に踊らされて 半径5センチまでしか見えなかったとする それが、自然の中にいるとみるみる澄み渡って それがあらゆる

          ケータイと私の間に生まれた愛

          純粋なひと

          純粋な人とは あらゆるものに 感動できる人 じゃないよ あらゆるものに 感動できない人 だ あらゆるものに感動できないけど あらゆるものの中から見つけた、 それは全く世間にまだ出てなくとも 全く誰の評価も受けていなくとも その中に一筋ある、確実にある 本質の道理を そこにあったら不自然なくらい さりげなく力強く佇んでくれた 守っていた美しさをみて それだけを見て はじめて そこに感動する人だ 純粋な人とは 全部に優しくする人ではないよ 純

          あの子

          あの子は、なんと不器用な生き様か。 とても優しく美しい心を持ちながら ものすごく冷たく無関心なものを持ち合わせ その間はスコンと抜け落ちている。 あまりにも憎しみすぎてその憎しみが自分を殺しにかかる。 だから、それをどうにか食い止め生命活動を継続できるように その憎しみの部分をスコンと消し去ったような。 でも、憎しみを消し去ったら 愛情、優しさ、思いやりまで抜けてしまうことは。 そんなことを考えられるような余裕に生きていなかったのだろう。 愛情でそこをなおすことを え

          燃ゆる身体の声、秋田で聞こえる。

          ジンジン、じわじわ。 それは、無目的な動きだった。赤くて細い、 みみずよりずっと小さい、水に浮かぶ虫。 それらは生命活動の中で、理由もなく蠢いていた。 生きている。 その動きは呼吸をしていることと、限りなく等しい身体の伸び縮みだった。 ただそれだけだった。 それは、生命活動をする上で、しなくても生命は続いていくものに見えた。 赤ちゃんは、何もジタバタしなくてもいい時にジタバタしていた。 子供も無駄な、そんなに今エネルギーを使っては後で疲れるような動きばかりしていた

          燃ゆる身体の声、秋田で聞こえる。

          人が自分に自然に生きる。そこには踊りがある。

          そういう温度で、踊りを広めていかないと。 赤ちゃんが人前でオギャーと泣いて手足をばたつかせることに、違和感を抱く人はまずいないでしょう。 けれど、大人になって自分の感性を持たず、思想を深めることなしに、白塗りで動物のような動きをしたら、それはとてつもなく違和感のある「ゲテモノ」になってしまいます。 ハリボテだから、「ゲテモノ」なんです。 本来の踊りは純なもので、動きが似ていても「ゲテモノ」とはむしろ対極にあるのです。 そこには、生まれたばかりの爽やかさがあります。

          人が自分に自然に生きる。そこには踊りがある。