清らかなカマキリの死に目に遭って。
初めて、稲刈りを手伝った。
その中で、私は見つけてしまった。
身体の、ほとんどの内臓部分がすっぱりと切られてしまっている
カマキリを。
まだきっと切られてから、5分と経っていない
そのカマキリ。
稲刈りの時に、機械がスパッと切ってしまったのだろう。
いのちがながらえるのに、必要な
ハラワタが身体からどろりと出ていて
その中で、その中で
それでも、生きていた。
そっと、稲から身体を持ち上げて
人が足を踏み入れられない草原に放した。
もう息絶えようとしている
そういう中で
そのカマキリは、
誰のことを呪うでもなく
自分でもよく分からないその状況の中で
ひっそりと
少しずつ
本当に美しい収まりで
助かった羽根と腕とを
畳もうとせずに、それが一番自然な形なのだという場所に
身体ごと、もどっていく。
そこには、人間のような目に見えないどろっとしたものはなく
その死をあるがまま
ただ受け入れている姿があった。
一時間後にまた見ると、
そのカマキリはそれでもかすかに動いていて。
その周りを少しずつ、蟻が行き来し始めていた。
ぼろり。
心からひとつ大きな涙がでた。
私はひとり、心が
泣いていた。
けれど、そう
わたしは肉を食べる。
肉に生まれてきたわけでもない牛や豚や鶏を。
なのに、泣いているのは
どういうことか。
いつだって、都合がいいわたし。
だけど、せめて
それらをいただくことは
ひたすらにありがたいもので
あってほしい。
肉に生まれてきたわけではない
だけど、そういう方のいのち
いただいている。
食べない選択をすることもできる。
だけど、いただくのだ。
カマキリ。その死に際。
わたしは、あなたのことは
忘れまい。
そうして、うっすらとまだ心の涙乾かぬうち
風そよぐ中で、蜻蛉がわたしの顔にとまった。
私の心を知るかのように
ただじっと、その蜻蛉は何も言わず
ただそばにいてくれた。
写真まで撮らせてくれた。
自然と共にいるのは、こういうことも知っていく。
私たちは、普段から当たり前に死が近いはずだ。
私たちが便利に生きていく中で
たくさんのいのちが、死んでいる。
ガソリンスタンドで見た
「虫取り+600円。すっきりするよ。」
の文字。
洗車ついでに、車にこびりついた虫の死骸も
とってくれると。
いいとか悪い、ということではない。
それは、そういう事実がある。
それを、虫たちは
いのち散らせることで、
恨むことすら知らずに
わたしたちに
毎日教えてくれている。
わたしは、今夜そっと特定のどこかだけへ向けたものではなく
手を合わせて黙祷していた。
先日、うちの近くで交通事故があって
人が一人亡くなったそうだ。
案外、人の死さえも、このカマキリと同じように
訪れてしまうものかもしれない。
心の準備なくいきなりに。
そのようなものだということ。
虫たちは、いつだって教えてくれている。
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