見出し画像

ゆらぎ。それは、丁寧に生きて、怒ること。

わたしは、人の言動の

違うと思ったことを言うとする。

それを伝えたら、多分その相手は傷つく。

反抗する人も涙する人もいる。

なんのため、なんのために

私はこんなことを言っているんだろう。

分からなくなる。

自分でも言うのが嫌でたまらない。

でも、言いたい。

これはとてつもないエゴイズムなのか。

相手もそれを言われたら

ぐっさりと刺さってしまう。

そういうことを言うのが躊躇われるような

今のご時世柄もある。

なんのために。

無作為に言えばいいってもんじゃないのですね。

わたしは、そこが分からず

無作為に爆撃のように落としていた。

それは、私が私に感じている

怒り。

それと同じものを他者に見た時に生まれる。

私の問題を他人に見て勝手に爆撃するなんて。

最悪の極悪人なのかも知れない。

でもその人に言わないで、なんとなく

時が過ぎてゆくのにはどうも違う気がして。

そう思うのはわたしが未熟者だからか。

だとしても、

未熟でも、誰も言わぬその言葉

嫌われたって、

そんなこと言うもんじゃないと
思われたって、

間違っていたって

そう、間違っていたって

言っても

いいのかもしれない。

相手にささったとしたら、相手は

自分でも、いくらかは、そう思っている。

としても、言わなくたっていい。

無作為に何でもかんでも言えばいいのではない。

とても丁寧に生きる必要がある。

そこには、言うからには希望がある必要がある。

相手にも自分にも。

希望があるから、そんなことを言える。

なかったら、言えるはずがない。

わたしは丁寧に普段を生きて生きて

その中で、自分が生きるということ

その責任を持って

それは自由というもので

わたしと相手が

生きてくる言葉

そういう怒りを

あらわす。

それが、相手にうまく伝わらないとしても

人は何年も何年も、ぐっさりときたものを

熟成させながら 考えるかもしれない。

わたしのターニングポイントは

きっとそういうぐっさりが呼び込んだもの。

でもそのことは、私のやることの正当化させるものであってはならない。

それは、相手を変えようとしている。

いやな、ことだ。

当たり前に嫌なこと。

誰からも感謝されないどころか嫌がられる。

見当違いかもしれない。
馬鹿げているかもしれない。
間違っているかもしれない。
相手を最高に傷つけて、自分のこともぐっさりと傷つける。

常にそれらをはらんだもの。

やる意味は、ない。

相手を変えようとしたら、それはただの

わたしのエゴイズムだ。

それこそ、爆撃だ。

人を変えるために、やらないこと。

ただそこに、その違和感があった。

それを取り出した。

そこに、ねちっこい説教はひとつもいらない。

「そういうふうに、私には見えた。」

ということを、至極淡々とただ言うのだ。

意味はない。意義だけは、ある。

そういうように、思いたいだけかも知れない。

こういうことを書いて賛同してもらいたいだけかも知れない。

それらだけ、
というわけではないかもしれない。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集