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燃ゆる身体の声、秋田で聞こえる。

ジンジン、じわじわ。

それは、無目的な動きだった。赤くて細い、
みみずよりずっと小さい、水に浮かぶ虫。

それらは生命活動の中で、理由もなく蠢いていた。

生きている。
その動きは呼吸をしていることと、限りなく等しい身体の伸び縮みだった。
ただそれだけだった。

それは、生命活動をする上で、しなくても生命は続いていくものに見えた。

赤ちゃんは、何もジタバタしなくてもいい時にジタバタしていた。

子供も無駄な、そんなに今エネルギーを使っては後で疲れるような動きばかりしていた。

私たちは、いつしか無目的に、ジタバタするのを辞めていた。

半分、死んだのだろう。

大事な部分だけ抜け落ちて、半分の皮の部分だけで生きてしまっているのだろう。

それを知らずに、
大人になると皮だけでいるのが
あまりにも当たり前なので

皮だけになることが
大人になることだと大人たちはいうのだろう。

皮だけになることを
もう無言でもなく
ありとあらゆる局面で求められる世界で

絶対に大切な身の部分を取られまじとする
それは、自由に動かせてもらえる時にはない
死にそうな虫のあがきの凄まじさのごとく
現れていく。

最近は、人は死に際になってやっとまた
人間に近づく
エネルギーを発揮し始めるんじゃないだろうか。

はやく
そのエネルギー、元気なうちに出しなさい。

皮のまま、生き続けるなよ。

私はそんな先人たちの声を聞きに
この秋田に来たのかもしれない。

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