見出し画像

人が自分に自然に生きる。そこには踊りがある。



そういう温度で、踊りを広めていかないと。

赤ちゃんが人前でオギャーと泣いて手足をばたつかせることに、違和感を抱く人はまずいないでしょう。

けれど、大人になって自分の感性を持たず、思想を深めることなしに、白塗りで動物のような動きをしたら、それはとてつもなく違和感のある「ゲテモノ」になってしまいます。

ハリボテだから、「ゲテモノ」なんです。

本来の踊りは純なもので、動きが似ていても「ゲテモノ」とはむしろ対極にあるのです。

そこには、生まれたばかりの爽やかさがあります。
そこには、奥底の言いようのない感情が含まれています。

自分の思考や生き方での体現をなしに
既にある踊りの枠組みの中の踊りを真似ているだけでは、決して到達しない動き、踊り、感覚がある。

もっと言えば他者の言葉を借りて、実践している気になっているだけでは、踊りも「間違っていない」という安心感と引き換えに既にある権威に迎合した、予定調和的で面白みもない、「それっぽい何か」になってしまう。

表面の皮だけが、見たことのある何かに従って動いている。

そういうものに、人は感動はできないのです。

例えば、人の目を気にして自分の純粋な意見を捻じ曲げながらヘコヘコして生きている人が「自然を感じるのがいいんですよ」とか言って踊ってたら
なんだか不自然なねじれた踊りが出来そうな気がしませんか?

それはそれで、そういう人間らしさもあるんですが
やっぱり広く人に伝わるような人が感動するようなものにはなり得ない。

でも、自然的な生き方を生き切っている人が
伸びをする時に、その自然の中での湧き上がる喜びを表現して踊っていたら?

それってなんだか、とっても自然な雰囲気をまとってしまう。

そうやって生きていたら
草っ原で突然靴を脱いで踊り始めても
周囲の人はそれをみて、穏やかな表情になったり、泣いてくれる人もいるかもしれない。

でもきっと、そのことに踊る当人は没入状態だから気がつくことすらない。

本当に純粋な踊りには、その自然さが必要です。

世間の大多数にとって不自然なことを、考えて生き切った末に自然にやっているならば
それは芸術になっていく。

世間が表層のところを拾って生きて忘れてしまったことを、その踊りだけで、思い出させてくれるような。

私は、踊り手にあえて役割があるとすれば、そういう純なものをすくい取って現実に見える形にするってことだと思うんです。

あらゆる芸術がそうです。

そういう踊り、芸術に人は感動するんです。

舞踏のイロハを学ぶ前に、まず人として生き切っているんだろうか。
そういう人しか、真に迫った踊りは絶対にできない。
どんなすごい人に習ったとしても、絶対に。
土方巽やそのほかの人が実践した真に迫った踊りを真似しただけでは、「気持ちが悪い」踊りになってしまいます。

生きる喜びを考えうる限りの形で一瞬一瞬体現し、謳歌しているんだろうか。
それを存分に感じ、行動も、つまり無意識をもありありと感じている人の踊りは見るだけで、涙ぐめるほどに美しいのです。

自分を大切にしてると言いながら、むしろ自分を駄目にしちゃいないだろうか。
自分への過度な甘さが、自分をむしばんでいる生き方では、薄っぺらな踊りになってしまう。

例えば、愛や感謝を述べる「流行り」に乗っかって、純粋なる批判的観点をころしてしまう生き方では、人は感動ができない。

卑屈になって批判的に生きるのではない。まっすぐ純粋に生きるから感謝も批判も愛も全部、そこにある。

あらゆる感情や生き方がある中で、それでも生まれゆく感謝や愛情に人は感動を覚えてゆく。それらは意図されずに、紡ぎ出される。

悲しみ、怒りまでをもまっすぐに見つめ、その中に、それだけではない人間本来の純粋性を見出した生き方の人に生まれる身体の動きこそを
踊りと、私は非常にこだわりを持って呼びたいのです。

そして、そのような人は、例え踊りを習ったことがなくとも、技術ばかりを求めた踊りが足元に及ばぬような否応なしに感じる感動を伴うのです。

毎日毎日、自分のひとつひとつに対して
「これでいいのか」を、問うのだ。今やっている仕事への姿勢は、本質的に生きることに繋がっているのか。
今己は喜び、志に通じ、生きている感覚を得るのか。

何をしているかではなく、どんな姿勢でどんなこだわりを持って生きているのか。

そういう踊り。それが、間違いなく、これからの世界で必要になる踊りなんだと、
私はあらゆる考えつくことを尽くして表していきたいのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?