記事一覧
海を見に行くことと、感情的吃音のこと②
感情的吃音感情はいつも遅れてやってくる。心の琴線に触れようとするなにかと相対しても、そこに生まれた感情の足音はまだ小さく、遠い。結局私がそれを言葉で表現するまでは、その情動のかたちを捉えることはかなわない。私はそれを感情的吃音と呼んでいる。私をとりまく内面的世界の時間は、外側の時間と若干の時差をおきながらゆっくりと流れている。しかし、私の人生のうちにはそれら二つの世界がなめらかに接続し、即時的な感
もっとみる緩やかな希死念慮、前向きな自殺願望
厳しい冬の寒さが息を潜めて、眠たくなるような春の陽気が顔を出す。だがもはやコンクリートに敷き詰められた都会のなかで春を感じる手段といえば、春物セールをうたう電車の吊り下げ広告とか、街ゆく人が着ている薄手のワンピースとか、そういう無機的なものぐらいになってしまった。季節はもうすでに僕らが積極的にそこにあることを確かめない限り、存在を許されない可哀想なものに成り下がってしまった。いや、あるいはむしろ、
もっとみる凡庸であることと、そうでないことと。
「情けないことに、これこそ過度の文明の生む不幸なのである。教育などを受けると、青年は二十歳で心のゆとりを失ってしまう。ところが、心のゆとりがなければ、恋愛は往々にしておよそわずらわしい義務に過ぎなくなる」
ースタンダール『赤と黒』ー
プロト・タイプ大衆音楽を聴き、娯楽小説を読み、陳腐なメロドラマに感動する。観たって観なくたって何も変わらないような有象無象のYouTubeを観て安物の酒をあおり、
コウメ太夫の毛穴の性別
ある朝のこと。コーヒーを飲んでいると、ふとある疑問が浮かんできた。
”コウメ太夫の毛穴はオスなんだろうか、それともメスなんだろうか?”
チッキショ――!!!
いくら考えてもわからない。
コウメ太夫本体はオスなんだから、毛穴もオスなんだろうか。でもコウメ太夫がオスだからといって毛穴までオスである必然性はないように思えてきた。そもそも、毛穴の性別という非成立な命題を思考している時点で常識的な語の
わたしが風になるよろこび
土田隆生『風韻』ー箱根彫刻の森美術館で出会った一つの作品。わたしの記憶の一隅にこびりついて離れない、たったひとつの独りよがりな箱根ルポ。
風はどこにある?風は確としてそこにある。だが見ることも触れることもかなわない。心がからだのどこにあるのかその精確な場所がわからないように、風はただその存在の痕跡をみとめることしかできない。そういう意味では、風は心みたいなものだ。わたしたち
今日みた夢②《帰還》
列車はなおも走り続ける。薄明かりの漏れていたプラットフォームがはるか後方へと消えてしまってからは、車内はすっかり暗くなってしまってお互いの姿すらはっきりとは見えない。出入り口の非常灯が不気味に明滅を繰り返していたかと思うと、突然ぱったり光らなくなってしまった。Kは暗闇の向こうでおし黙っている。わたしは何か話しかけようと話題を探ったが、どれもふさわしくないように思われたのでわたしはKの言ったことを心
もっとみる