「監獄」を考える。
今日のテーマは「監獄」。脛に傷持たぬ読者諸君には無縁なものであるはずなので、その概念的輪郭はぼんやりとしているだろう。そこで本稿は「監獄」という文脈で語られる作品に触れながら、「監獄」という概念に立体感を与えてみようという危なっかしい(笑)試みをしていく。
監獄とは何か
そもそも監獄とは一体何なのだろうか。概念を把握するには、先ず言葉の定義を明らかにすることが肝要だ。下の引用はコトバンクからのものである。
成程監獄とは、実刑を言い渡された者を繋ぎ留めておくところである。(ここまでは周知の事実であろう)
しかし、これでは無味乾燥な字義の羅列にすぎない。そこで、よりこの概念に関する深い洞察を得るために、次のふたつの作品を見てみることにしよう。
1:映画『ショーシャンクの空に』
一つ目の作品は、映画『ショーシャンクの空に』。1994年公開のアメリカ映画で、少しばかり時の洗練を経ても根強い人気を誇る本作はモーガン・フリーマンとティム・ロビンスのW主演という豪華キャスティング。古典派としての風格を帯びてきているようなきらいがあり、私の大好きな作品の一つでもある。
あらすじ
『ショーシャンクの空に』の主人公デュフレーン(ティム・ロビンス)は、妻とその不倫相手を殺害したという冤罪によって超長期受刑者の流れつく監獄・ショーシャンクに収監されてしまう。デュフレーンはショーシャンクのなかで、レッド(モーガン・フリーマン)をはじめとする囚人たちと出会い、彼らの去就を見守りながら必死に生きようともがく。巖然と聳え立つショーシャンクの壁内で、希望を持つことなど許されるのだろうか。
監獄と希望
ショーシャンクは長期受刑者の多い監獄だ。そこで暮らす囚人たちにとってはショーシャンクが世界の全て。ショーシャンクの中で行き、そして死んでいく。「もしも外に出られたら」とか、「壁の外はどうなっているのだろう」などという思考は意味をなさない。
“Hope is a dangerous thing here”
悪虐と欺瞞に満ちたショーシャンクでは、希望はむしろ心を蝕む劇薬となるのだ。終わりのない労役と不均質な人間関係に苛まれる日々を乗り越えるのは生易しいことではない。果てしない刑期と絶対的牢壁に阻まれ、希望は地に染み入る雨粒のように融解し絶望へと変容する。何が言いたいのかというと、監獄において人は自分の身体の及ばぬ先のこと、広がる世界に対する興味もとい希望というものを次第にすり減らしてゆき、やがて己の居場所に安住するようになるという側面があるということだ。
2:砂川文次『ブラックボックス』
概要
今年度の芥川賞受賞作。著者は自衛隊での勤務経験があるなど異色の経歴を持ち、受賞記者会見での独特な身のこなしで一躍脚光を浴びることとなった。生々しいほど鮮やかな感情のうねりの描写が印象的な本作の主人公は、コロナ禍の東京都内でメッセンジャー(書類や配達物を自転車で配達する業務を行う)をしている20代後半の男サクマ。彼は一時的な感情の暴発を抑えきれず、暴行事件を起こして刑務所に収監されてしまう。
ブラックボックス
「終わったな」
刑務所に収監されたサクマは、そう思った。実刑をもらえば立派に前科者であり、社会的信用は失墜する。これは文字通りの破滅である…と多くの人は考えているだろうし、サクマも例外ではなかった。事実、犯罪を起こした者は逮捕され善良な市民からは隔離されるので、周囲の目からも”終わった”と思われるからだ。
しかし、当然のごとく生きている限り彼らの生は続く。
彼らの生きざまはマジョリティから蔽遮され、まさに”ブラックボックス”と化すのだ。
二つの作品と監獄
「監獄」に対する光源の当てかたとして、二つの作品の間で決定的に異なるのは、『ショーシャンクの空に』が監獄の内側で起こる人間の心理に迫るのに対し、『ブラックボックス』は、一見監獄の内側を描いているようにも見えるが、作品の主題が囚人が監獄の外側、つまり一般社会から忘れ去られることにあるという点だ。外側からは忘れ去られ、内側からは希望が単調で苛烈な日々に毒され中和されていく。それが監獄というものなのだ…。
おわり
本稿の終着点は、あくまで監獄という概念に立体感を与えるということに限るものである。実際に監獄に入ってみなければわからないこともあるだろうが、それは各自確かめてみて欲しい。
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