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緩やかな希死念慮、前向きな自殺願望

厳しい冬の寒さが息を潜めて、眠たくなるような春の陽気が顔を出す。だがもはやコンクリートに敷き詰められた都会のなかで春を感じる手段といえば、春物セールをうたう電車の吊り下げ広告とか、街ゆく人が着ている薄手のワンピースとか、そういう無機的なものぐらいになってしまった。季節はもうすでに僕らが積極的にそこにあることを確かめない限り、存在を許されない可哀想なものに成り下がってしまった。いや、あるいはむしろ、昔からそのあり方は変わっていないのかもしれない。しかし、そんなことはもうどうだっていいのだ。
明日死ぬ僕にとっては。

通勤ラッシュの時間帯。世界一正確といわれる日本の電車も、この時間帯に限り遅延は日常茶飯事だ。幼い頃の僕は「人身事故による遅延」のアナウンスを聞いても、まさかどこかでバラバラ死体の回収が行われているなんてことは想像だにしなかっただろう。人身事故といえば、閉まるドアに指を挟んだとか、誰かが電車ですっ転んだとか、せいぜいそんなもんだと思っていた。しかしネットの海は怖い。氾濫せんばかりの大量の情報を無差別に押し付けてくる。知りたくなかったことまで。

その日も人身事故で列車が大幅に遅延していたので、僕はTwitterを見て時間を潰していた。何気なくタイムラインをスクロールしていると、ある映像が何度も繰り返しタイムライン上に流れてくることに気がついた。嫌な予感がしたが、好奇心には勝てない。その投稿を見つけて再生ボタンを押すと、中学生ぐらいの少女が1人、カメラに背を向け、レールの方を見つめる形でホームに立っていた。どうやら映像はホームの椅子に置かれた彼女のスマートフォンから撮影されているものらしい。彼女は何も語ることなくその場にぽつねんと立ち尽くしている。程なくして列車進入のアナウンスが鳴ると、彼女は吸い込まれるようにして音もなく線路に飛び込んだ。瞬間、列車はホームに轟音を立てて滑り込む。そこで映像は途切れた。短い映像だが何を意味しているのかは明らかだった。飛び込み自殺。誰がどう見てもそれ以外の何物でもない。誰がどうやってこの映像を入手し、何のためにネットに流したのか、そんなことまで考える余裕はなかった。ふと気になってもう一度映像を見返すと、少女が立っていたホームがまさに今自分の乗ろうとしている電車のホームに似ているということに気がついた。僕は急いで電光掲示板を探して「人身事故による遅延」の表示を見上げてみたが、いくら待っても電光掲示板がそれ以上何も語ることはなかった。

あの時の人身事故による遅延がその少女によるものだったかということについて確かめる方法はなかったが、しかし僕は本能的に理解した。電車が少し遅れるたびに、誰かが死んでいる。その頃の僕にとって、人身事故による遅延は最も身近な死の概念となった。人は、電車に轢かれて死ぬ。そういうものなのだ、と。

映像の中の少女が何を思い、どうして線路に身を投げたのかを知ることはできないが、リアリストたちは決まって似たようなことを言う。彼らによれば、彼女の行為は「逃避」と「迷惑」という単語に集約されるそうだ。斟酌の余地はない。どうせ誰にでも訪れるようなメランコリックな気分に任せて現実にウンザリ、死による救済を望んだのだろうと。列車が遅れるたびに、誰かが死んでいく。それは単なる事実であって、それ以上でもそれ以下でもない。彼らは即物的であるが合理的だ。そのような事実はありふれている。自分の社会の外側にいる人間の死に無関心でいることはなんら後ろめたいことではないからだ。逆に、僕が朝線路に飛び込んだところで彼らリアリストたちには迷惑こそかかるものの、余計な気を使わせる心配はないということらしい。死んだ後のことなどどうでもいいのではあるが。

前置きが長くなってしまった。この文章は、生まれてこのかた、僕が明日その人生を終わらせるためだけに生きてきたということを誰かに知っておいてほしいというささやかな願いを込めた遺書である。それでも構わないという奇特な方にだけ、このまとまらない文章を読み進めてほしい。

物心ついた頃から、僕には大きな穴がぽっかりと心のどこかに空いているような気がしてならなかった。それは両親の背中を見ても、先生の背中を見ても決して埋まることのない大きな穴。孤独や、感傷といった類のものではないなにか。あとで気づくことになるのだが、実際それは信仰であった。信仰の欠落という大きな心の穴は絶えず僕を苦しめてきたのだ。

「誰彼構わず愛想を振りまいていてもしょうがないわよ」
当時中学三年生になったばかりの頃、知り合って間もない頃の担任の先生にそう言われて驚いた。何気ない一言だったが、僕には全てを見透かされたような気がして焦りとも怒りともつかないような感情を覚えたことを記憶している。僕は確かに根っからの平和主義者である。誰とでもすぐに仲良くなるといった類のものではなかったが、そのかわり誰に対しても公平だった。そういう意味では愛想の良い少年だったといえるだろう。しかし、やはり僕のその性格は信仰の欠落というその大きな心の穴に起因する偽物の平和主義である。それは僕は既に何が正しくて、何が間違っているかといった判断をすることができなくなっていたということである。人間関係に自分から何か作用しなければ、間違ったことをしなくて済むからだ。波風を立てないように愛想よく振る舞うこと。そうすれば何も問題は起こらない。

何が正しくて、何が間違っているのか。善悪の判断が全くできないのだという人間はいるまい。少なくとも、人間の社会の構成員として守るべき最低限のルールは法が示している。今そこに個人的な推論や疑義を持ちかけることにあまり意味はない。しかし、人が他者と関係するそのありかたを導く法は存在しない。喧嘩したり、陰口を叩いたりしても、それを裁くのは法律ではない。別の言い方をすれば、他者と関係するそのありようについて何が正しく、何が間違っているのかということについて判断を下すのは他ならぬ己の持つ信念や信仰によってであるということなのだ。そしてそれが時には法を超越することさえあるということも理解している。だが僕には信念も信仰もぽっかりと欠落していた。ただ法を理解し、周囲の大人が要求する「良い子」であり続けた。その結果出来上がったのは空虚な平和主義者だ。僕は信仰を欲していた。

思えば、僕は常に正しさというものに固執してきた。正しくあること、それが最も重要なことだと思っていたし、自分が間違っているということに対して我慢ならなかった。しかし、正しさというものが曖昧で、時には相対的なものであり、またある時には主観的なものであるということを知ると、僕には権威や奇蹟に裏打ちされた信仰の対象が必要であるとも考えるようになった。信念や信仰のようなものが、自分の外側にある信念や信仰に触れるうちに自然とそれが内在化し、それと並列化することによって獲得するものであるとするなら、僕にはその資質が欠けていたと言わざるを得ない。それをするには僕はあまりに純粋な理想主義者だったし、だからこそ本来その対象であるべき両親なんかをその対象にしたいと思うことはできなかったのだ。

話は逸れるが、信仰の対象を探していくうちに、名著『カラマーゾフの兄弟』に出会った。その中でもイワンの「大審問官」の章は有名である。何が書いてあるかということをざっくりまとめると、総じて人間というものはイエスの教えに耐えうるほどの精神的な強さを持ってはおらず、低きに流れてしまうのが常であるのだということ、そして代わりに権威ある教会に服従することによって、信仰の体系の中に組み込まれることを「赦される」というのだということだ。イワンは僕に似た無神論者だ。これを読んだ時、目が開かれる思いと同時に、信仰そのものについて絶望した。もはや信仰はシステムとして信者を内包し、彼らの弱さを受け入れるために存在しているのだと悟ったのだ。結局イワンは「大審問官」のドラマを語り終えたのち、カラマーゾフ的堕落の路を辿るだろうと予言したが、今の僕にはその気持ちがよくわかる。信仰を失い、信仰に絶望すれば待っているのは高潔な死かカラマーゾフ的堕落のどちらかだからだ。僕は選択を迫られた。こういうとき、あのリアリストたちはきっと両極端に傾倒する必要はないのだと言うだろう。大人になるということはそういうことなのだと。

僕は明日死ぬ。しかしそれは通勤電車の前に飛び込んだり、首を吊ったりするという肉体的な死を必ずしも意味しない。肉体的に死ぬかもしれないし、死なないかもしれない。しかしながら、理想主義によって作り出された虚像の平和主義者は死ぬ。いや、死ねないかもしれない。自殺願望があって、死ぬ、死ぬといいながら死の恐怖を克服できない人たちのように。そうなったら、僕は肉体を道連れにするだろう。イワンのように、カラマーゾフ的堕落の路をゆく覚悟は僕にはない。どうだろう、これは「逃避」だろうか。「迷惑」だろうか。僕の緩やかな希死念慮と、前向きな自殺願望は。


最後に、僕の好きな句を一つ

「しなやかに私を脱いで半夏生」

今年の半夏生はいつだったかな

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