凡庸であることと、そうでないことと。
「情けないことに、これこそ過度の文明の生む不幸なのである。教育などを受けると、青年は二十歳で心のゆとりを失ってしまう。ところが、心のゆとりがなければ、恋愛は往々にしておよそわずらわしい義務に過ぎなくなる」
ースタンダール『赤と黒』ー
プロト・タイプ
大衆音楽を聴き、娯楽小説を読み、陳腐なメロドラマに感動する。観たって観なくたって何も変わらないような有象無象のYouTubeを観て安物の酒をあおり、馬鹿みたいに寝る。遊びといえばカラオケやボウリング。コンクリート・ジャングルの中で人工的にあつらえた無機質な享楽。
そんなふうに似たような時間の使い方をして、似たもの同士、月並みな恋愛をして、子供をこさえて平凡な家庭を築く。小学生の頃描いた、口に出すことすら恥ずかしいような夢は決して掘り起こされないタイムカプセルの中にしまい込んで忘れてしまう。経済的な安定のために仕方なく中途半端な企業に新卒入社し、なんやかんや適当なポストに就き、あるいは就かず、定年を迎えて退屈な老後を過ごし、じきに死ぬ。何千、何万、あるいはもっと多くの人間が同じような人生を歩み、忘れられていった。自分はだらだらと続く歴史の1ページに特異な存在として名を遺したい、そう願ったとしてもそれを為すには短すぎ、しかし諦めて凡庸さを受容するのには充分すぎる時間のなかで他のだれかの栄光を眺めて、後悔し、あるいはしないで、そして死ぬ。
−凡庸だ。
そう感じるのは、「生きる」という現代的なプロト・タイプがそういうものなんだというだけの話で、その是非を問い質してもはじまらない。時代が変われば、人の生き方も変わる。当然のことだ。特殊な生き方をする人間がいれば、その他マジョリティは程度の差こそあれ、その時代のプロト・タイプをなぞって生きていく。
そういう意味で僕は他人の人生について知りすぎた。僕だけじゃない。みんなもそうだと思う。せっせと日常の(つまりは”非日常”ということなのだけれど)一場面を切り抜いては雑なフィルターやら加工やらをしてInstagramにあげるし、日々の愚痴や求められてもいない自分語りをtweetするし、ちょっとでも「特殊な」生き方をしたかと思えばYouTubeでアピールする。他人の人生が、僕の脳内メモリーのなかで氾濫している。AIがビッグデータを処理してディープ・ラーニングなんかをするみたいに、僕の人生はSNSというエコー・チェンバーの中で増幅された誰かの人生によって作られたプロト・タイプに従って生きることを強制されているような気がする。僕は情報化された”文明の過度な発展”によって”教育”され、最適化された振る舞いをする。僕の脳内に形成されたAIが、「普通」ならこう振る舞い、こう生きるぞ。だからお前もそうするべきだと囁く。普通の恋愛はこうだ、普通の大学生はこうだ。こうしろ、こうしろ、こうしろ…。
ー余計なお世話だ、クソが。
そう思いながら、誰かと話を合わせるためだけにつまらない本を読み、趣味じゃないアニメやYouTubeを観て、「理系の方がいいよ」と言われたから理系に進み、その後どうなるかは知らないが先に知ったところで大した驚きはない。
特殊性の分水嶺
−話は少し逸れる。
「好き」を語ること
よく聞かれる。
「何が好きなの?」
「趣味は何?」
こう聞かれれば、僕はまるで誰かに言い訳するみたいにいつもより饒舌になり、薄っぺらいつまらない無趣味人間だと思われないように必死だ。そんな自分にいつも吐き気がする。
「映画が好きです」
「じゃあ〇〇って映画観たことある?」
「いや、ないな」
「映画好きなのに?」
ー悪いかよ。
ていうか、「好き」ってなんだっけ。脳内のAIに検索をかけた。返ってきた答えはこうだ。
【好き】《すき》
ある対象について知悉していること。
そりゃ本来の意味とはだいぶズレているし乱暴な定義だ。まったくもってトンチンカンな辞書ではあるが、100%間違っているかといえばそうともいえない。
「〇〇好きならこれは知らなくちゃね」という言い方はたまにする。「《好き》の程度は対象に関する知識の量にあらわれている」というのが僕のAIによって結論されたプロト・タイプなのだから仕方がない。しかしながら悲しいかな、僕は好きなものに対して体系的な知識を欠いていることが多い。
たとえば僕は「カサブランカ」が世界で一番の映画だと信じているけど、世界中のオールド・ムービーから最新の映画まで全部を見てはいないし、そこいらの愛好家よりよっぽど映画を知らないのだ。僕はその辺の女優よりイングリット・バーグマンの方がずっときれいだと思うし、その辺の俳優よりハンフリー・ボガートの方がずっとカッコいいと思う。でも全ての俳優や女優を知り尽くした上で結論したわけじゃない。こういうのは、僕のプロト・タイプ的に言わせれば《好き》のうちに入らないのだそうだ。知識量が足りていないから。なにか《好き》を語るには、充分な知識が必要らしい。経験は二の次だ。
将来を語ること
「将来は何になりたいの?」
「なんでその大学、学部を選んだの?」
高校生の頃、物書きになりたいと思っていた。文学部でカフカでも芥川でもウィトゲンシュタインでもいいから研究して、それで卒業したらエッセイでも小説でも書きながら適当な会社に就職する、なんてことを夢想していた。事実そうしようとしていた。しかし、そこで僕のAIはまたも囁いた。
「理系に行けるなら理系に行ったほうがいい」
幼い頃から理数科目の点数がよかった僕はその声に素直に従った。物書きには理系に行ってもなれる。そう言い聞かせて、今の学部にいる。自分が何を学びにきたのか説明することはできない。説明したところで、嘘臭いものになるだろうし、実際嘘も混じるだろう。けど、それもそのために作られたプロト・タイプに任せておけば大抵の人間は納得して「ふむぅ」とか「なるほど」とか間抜けた相槌を打って感心するんだろう。たとえば「医療業界に革命を起こしたい」とか、「患者の命を救いたい」とか、「〇〇を発明して社会に貢献したい」とか。非凡で立派なことだ。しかしそのようなストーリーはありふれている。それらの英雄的動機がプロト・タイプによるものなのか、自分の真情なのかということについて、自分自身でもよくわかっていないことがある。
凡庸さから解放されること
僕は凡庸でつまらない人間にならないために、「好き」を語り、「将来」を語る。そうして獲得したよそ行きのアイデンティティーによって凡庸さから一時的に解放されようとする。あまりに幼稚で愚かしい。
僕のなかにはそういったプロト・タイプに反した生き方をしたいという衝動と同時に、プロト・タイプに身を任せてしまう凡庸さを同居させていて、自分でもどうしたいのかよくわかっていない。だから呑気な浮遊生物みたいに一貫性のないことをするし、喋る。でもそれはそれでいいと思っている。僕にとって動機というものは必ずしも結果に先立つとは限らないからだ。結果があって初めて動機が確定するということがあってもいい。よくわからないところに話が不時着してしまった。とりあえず終わることにする。
「本当に伝えたいことは、うまく伝わらないものよ」
−村上春樹『羊をめぐる冒険』−
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?