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ふと海を見に行くことと、感情的吃音のこと。

ときどき感じること。すべてをなげうって現実感覚から切り離された空間に身を置きたくなる。そんな青い衝動に駆られて海を見にいくことがある。海はいい。人間関係や大学の課題といったありとあらゆる煩わしさが、青黒くぬれてかがやくあの水面に吸い込まれてすべての意味を失い、つかの間の安寧が訪れる。このかりそめの平穏。私の大切な時間。

だがそれは常に一種の拭いがたい違和感と表裏一体であるということを言わなければならない。本稿は、そのなにか捉えどころのない奇妙な感覚にできる限りの輪郭線を与える営みである。

対象を把捉するということ-美的体験-

ある日の夜明け前、暁闇のなかを15分ほど歩いて近くの砂浜へ出かけた。海岸に着いてまもなく、内湾の向こう、南北に張り出した岬の稜線から朝陽がのぼってくるのがみえた。

“It was beautiful.”
それは美しかった。


記憶はまるで映画のエンドロール。でもスタッフロールは流れない。そんな感じ。けれども、この「美しかった」という印象は、日が昇るその瞬間における私の心の裡を正確に表していない。それは私が日の出を見た事実を記憶する工程で、わたしが必要にかられてあとから付した現実への解釈にすぎなかった。むしろわたしが日の出を眺めているその瞬間の感情は虚無に近いなにかであった。何故だろうか。いつも日が高く昇ってから起き出す私にとって、この光景はあまりに日常と隔絶しすぎていて、日の出そのものが奇妙であったからだろうか。なんにせよ、ひとたび私が海を背にすれば、一瞬にしてそれは失われてしまうように思われた。正直にいえば、わたしはその美しさがわからなかった。その光景には致命的なほどに意味が欠けていた。そこには無感動があった。あるのはただ幻滅である。わたしはいつもそうである。目の前の対象をうまく捉えることができないのだ。なにか美しいものと相対しても、当意即妙なじぶんの感情のうごきを感じることができないのである。感情はいつも遅れてやってくる。必死に言葉を探し、こうして書き留めることによってようやく感情は感情としてはじめてその表情をあらわすようになる。しかし、その感情があらわれるころには、当の「美しいもの」はどこかへ行ってしまっている。こうして言語化された感動は、とうの昔に色褪せたセピア色の写真である。

感情的吃音

しかしこうした感情の吃音はごく稀に、そんなものがまるで存在していなかったかのようになりを潜めることがある。外側の世界と内側の世界がなめらかに接続し、外界の刺激に対して迅速に、正しく応答することができることがある。私はその瞬間を一生涯忘れることはできない。また逆にそのような感情の発露を通じて、忘れてはいけない瞬間というものがわかるようになったともいえる。それというのも、私の身体と意識(感情)が私の手の届かないどこか遠いところにあるような気がしてならないからである。

私のしばしば遅れがちな情動が、すばやい反応を見せたのは、高校二年の夏であった。それまでにも親戚が亡くなったり、家庭の不和があったりと、種々(変な言い方だが)悲しむべき出来事があったが、やはり別の世界の出来事のように感じられて、ただぼんやりとしたやるせなさが、何か誰かに言い訳をするように込み上げてくるだけだった。

しかし、そんな私にも唯一、私を外側の世界としっかり関係づけてくれるかけがえのない存在があった。それは小学生の頃、幼い私の誕生日の記念として家族に加わったダックスとチワワのミックス犬であった。彼女の体毛は肌色の毛と白毛と黒毛がモザイク状に混じっていて、捉えどころのない毛並みをしていたので、どの犬とも似つかない独特な風態であった。最初の日には、あどけない顔に大きな不安を浮かべながら私の細くて短い腕の中で丸くなっていたことを覚えている。小学生らしく、名前はポケモンの何かしらから文字をとって「プラ」と名付けた。プラと私の歴史は筆舌に尽くしがたいほど長大で、彼女が他界してから3年が経つ今も、細部にわたって色褪せないあざやかな思い出が心の中にある。そして遂にあの日、私は忘れてはいけないものを知った。

プラ。懐かしい友人。

あの日の話(続く)

「もうこの犬は永くないね。フィラリアに罹ってら。」
祖父を訪ねてきた初老の客人が、なんとなしにこう言い放った。わたしは怒りとも諦めともつかない気持ちを押し殺していた。

…この先の話は長くなりそうなので、今回はこの辺で筆を置くことにする。

(次回に続く)

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