19歳の『罪と罰』
僕はナポレオンでも、カエサルでも、劉邦でもない。語る言葉は他の誰かの辿った地口、新しいことを言う力もない。そんな人間に、非凡な生が許されるか?革命の血を啜り、旧態の屍の上に立つ資格があるか?これは大学生の僕が読む『罪と罰』(ドストエフスキー)である。
あらすじ
主人公のラスコーリニコフはペテルブルクで孤独に口を糊する法科大学生である。
ある日、彼は金貸しの老婆アリョーナ・イワーノヴナとその妹リザヴェータを殺害し、金品を強奪してしまう。この犯行によって得た財産によって、彼は大学を卒業し世に裨益するつもりであったが、実際は良心の呵責と身の破滅への恐怖に苦しむことになる。
ラスコーリニコフと英雄的思想
なぜ彼は善悪の彼岸を飛び越え、かの凶行に至ったのだろうか?
その答えはある一つ英雄的思想に端を発していることが、彼の告白によって明らかになる。
「一つの凶行は、その後の百の善行によって償われる」
つまるところこうである。彼は学費を払えず法科大学校を辞めてしまっているので、もし件の強盗殺人によって財産を得、無事大学を卒業できれば、法曹として社会に貢献できるのだ。
しかし実際の様子は彼が予期したものとはまるで違っていたのである。事件の全容が徐々に世間の目に明らかになってゆくにつれて、彼は迫りくる検察の影に怯えなければならなかった。(『罪と罰』は思想小説のテイをとりながら、検察対ラスコーリニコフという構図の緊迫したサスペンスドラマという顔も持ち合わせていて読者を飽きさせないのだ。)
二人の女性
妹ドゥーニャ
また、彼が煩悶したのは、事実の暴露だけではない。善良な心を持つ二人の女性、妹ドゥーニャと娼婦ソーニャのことである。妹ドゥーニャからの手紙でラスコーリニコフは、彼女が名士であるピョートル・ペトローヴィチ・ルージンと結婚しようとしていることを知る。彼はこれが妹が兄の生活を助けるための望まない結婚であることを悟るのだが、追われる身となった彼には、妹の去私的な愛はただ重荷となって現象するのである。
娼婦ソーニャ
また事件の捜査がいよいよ佳境に入ろうとしていた頃、信仰心の厚く優しい心をもったソーニャはラスコーリニコフの悲劇を悟り、罪人となるべき彼に無償の愛をそそいだのである。ラスコーリニコフは彼と添い遂げる決意したソーニャの信仰に打たれ、ついに自首を決意するのであった。
革命と若さ
「一つの凶行は、その後の百の善行によって償われる」という思想は、少しの犠牲も厭わず旧体制を打破することのできる偉大な革命家にのみ許されるものであって、些細な犠牲に良心の呵責を感じてしまうような器の人間には無用の代物であるのだ。
若さというのはしばしば自分自身の器の大きさを誇大させるものである。それがかの“英雄的思想”と結びついたことによって、ラスコーリニコフをして善悪の彼岸を飛び越えしめたのだ。これは現代の若者にとっても共感性を欠くものではない。既存の枠組みを飛び越えて、古いものを犠牲にし、新しいものを追い求める姿勢はまさに鳴動烈しい現代において求められるフロンティア・スピリットである。しかしながら、全ての人間にそれが許されているわけではないのだ。社会は変化に対して腰を軽くしてはならない。激烈な変革には激烈なリスクがともなうのだから。
Desperate disease requires drastic remedies
だからこそ、革命的な精神は革命的器にしか許されない。『罪と罰』は結局、一介の青年が身の程を識り、信仰に身を委ねる話であるといえる。
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