横須賀ルポ「皇国興廃在此一戦」
《日本海海戦》
時は1905年5月27日。前年の2月に開戦した日露戦争も終局に差し掛かりつつあったこの日、戦史に残る大きな一戦が繰り広げられた。日露戦争は日清戦争よりも大規模に展開され、総力戦の様相を呈していた。ロシア帝国の内政混乱もあり、戦局は大日本帝国軍の優勢であったが、当時の大日本帝国にこれ以上戦争の長期化に耐えうるほどの力はなかったように思える。そんな頃合いであった。
明朝5時過ぎ、五島列島沖合にて敵艦発見の報を受け出撃した連合艦隊は、およそ半日が経過した午後1時ごろ、集結して対馬沖を南下していた。やがて左舷遥か前方にぽつぽつと艦影が現れる。ロシア帝国海軍、通称バルチック艦隊である。戦局逆転のため、40隻あまりの艦隊がヨーロッパから遥々と日本海海域を目指してインド航路を航行し、今まさに連合艦隊と相対しようとしているのである。連合艦隊司令長官東郷平八郎の指示により旗艦「三笠」のマストにZ旗が掲揚され、連合艦隊は戦闘態勢に入った。
「皇国の興廃はこの一戦に在り。各員一層奮励努力せよ」
日本海海戦である。
《東郷平八郎》
敵艦をみとめた東郷は大きく手を左に振りかざし、取舵一杯の指示を出す。すると三笠を含む連合艦隊の約半数が、北上してきたバルチック艦隊に並走するかたちをとり、残りが後方追撃のためにバルチック艦隊の背後を目指すというふうに艦隊が二分された。いわゆる「T字作戦」である。これは海戦史に例を見ない奇抜な作戦であった。
結果としてバルチック艦隊側の誤射により口火の切られたこの海戦は、1時間足らずでほぼ勝敗は明らかなまでになる早い展開を見せた。連合艦隊側の死者は116名であったのに対し、バルチック艦隊側の死傷者は一万を超え、その主戦力のほとんどを失った。大日本帝国の完全勝利といえる。
この歴史的大勝利は日本の独立安寧を守り切っただけでなく、列強の帝国主義に対する東アジア諸国の反抗の嚆矢となったのであった。
当時のバルチック艦隊を相手取り、一国の命運をその双肩に背負わなければならなかった男、東郷平八郎。その重圧は推して知るべくもない。歴史に「もし」は禁物だが、かりにかの戦闘に敗れていたならば、当時の日本の独立と平和は守られなかったかも知らないということは肯ぜざるを得ないだろう。
《横須賀 記念艦「三笠」》
東郷がかつて立っていた場所に、いま私が立っている。眼前の景色は異なれども、同じ目線に立っている。令和の時代の、ただの1人の日本人として受ける如何なる重圧も、期待も、使命も、この「三笠」の艦橋から眺めれば枝葉の如きに過ぎない。熱烈な愛国主義者ではないが、それらはどのみち、1億2千万人の去就を左右するようなものには到底及ばないだろう。ならば私の悩みや葛藤などはなんと卑小なことだろう。そう考えた時、心がすっと軽くなるような気がした。また同時に、東郷という男を心から敬服したいという気持ちで自然と涙が溢れてきた。まさに東郷はひとりで日本人の十字架を背負ったのだから。
このさき、期待や不安におしつぶされてしまいそうになったとき、「三笠」の甲板に上がって海を見に来てみてほしい。頸烈な戦地と化した日本海の海景に思いを馳せれば、現実の卑近さを嫌でも思い知らされる。
私も大事な試験を目前に控えている。気分転換に横須賀を訪れたが、意外なところから激励を受けた。とりあえず全速前進、ヨーソロー!