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病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈50〉

 タルーがリウーを相手にして、己れの身の上を独白する場面は、言うまでもなく『ペスト』という長編小説における最重要箇所の一つである。多くの読者はおそらくここに、ペストという病を悪に見立てた、その戦いの記録として、この作品に埋め込まれているとおぼしき、象徴なり主題なりといったものを見ることになるのだろう。

 ちなみに、この告白においてタルーが語る、死刑執行の目撃談というのは、カミュの手によるその他の作品、たとえば『異邦人』や『最初の人間』などでは、その形を変えて主人公の父親が経験した話として語られてもいる。それは、事実としてまさしくカミュの父が経験した出来事を、後に彼の祖母から聞かされたものであったらしい。
 とすればタルーが抱える心の病気あるいはトラウマというものは、実はカミュ自身の心に巣食うものでもあったわけであり、タルーの死刑に対するこだわりは、まさにカミュ自身の執着でもあるわけなのだ。
 ところでこのトラウマによる影響は、タルーが他人に対して取る、その特徴的な距離感覚にも表れているだろうと言える。彼はたびたび「理解と共感」ということを口にするが、しかしその対象はあくまでも、一般的かつ漠然とした観念として捉えうる限りにおいての「人々」となるのであり、そしていかんせんそうならざるをえないのである。
 もしもタルーが、それが誰であれ特定の一人の人間に対して、つまり「今目の前にいる、この人」に対して、その「理解と共感」の眼差しを集中させようとすると、彼の場合そこにはどうしても、あの「赤毛のフクロウ」の面影が眼前に立ち現れてきてしまうし、「胸に開いた大きな穴」の幻影に、その目が釘付けにさせられてしまうことになるのだ。
 だから彼は、その手記やコタールなどへの対応からもわかるように、一人の特定の人物に対しては、一定の興味や関心などを持つことはあるとしても、けっしてそれ以上は深入りせず、また相手に自分から心を開くこともしない。一見リウーに対しては例外的な態度で接しているようにも思えるが、しかしそれでもなお、彼の封鎖された心の壁というものは、その唯一の友を前にしても、けっして取り除き切れているわけではないのだと思われる。

 タルーは、保健隊の結成をリウーに持ちかけた、最初の込み入った対話においても、その初っ端からいささか唐突な調子で「自分は、死刑の宣告などまっぴらなのだ」と宣言していた。そういうところから考えてみても、リウーとはまた少し違った理由ではあれ、タルーもまた人が死ぬこと自体への嫌悪について、徹底した態度をもって処してきたのであろうと思われる。
 そして、その人の死因がたとえペストであろうと死刑であろうと、自分からそれに手を貸すようなまねは当然のこと、それを目の前にして自分がただ手をこまねいて、黙って見ていることさえ耐えられない気持ちでいることについても、二人はたしかに共通した意識と信念を持っているのだと言ってよい。
 いっさいの人の死の理由となりうるものに、自分から進んで関わるようなことは断固として拒絶し、全ての人々に対して、けっして「不倶戴天の敵」のような存在にだけはなるまいという、「頑強な盲目的態度を選んだ」タルー。
 それでももし、自分がやむなくペストを撒き散らすことになってしまったとしたら、しかし「少なくとも自分ではそれに同意してはいない、つまり、罪なき殺害者たらんことを努める」つもりなのだと彼は言う。それはある意味、矛盾した態度として不条理そのものなのであり、まさしく「際限なく続く敗北」の道を突き進むようなものなのでもある。その点においてもタルーとリウーとは、たしかに「同志」なのであるとも言えるのだ。

 ただ、それであってもなおリウーとタルーの二人は、「共にありながら、しかもそれぞれに一人ぽっち」なのだった。彼らはやはりどこかで互いに遠く離れていた。それは彼らが結局のところ、ペストを介してでなければ出会うことがけっしてなかったであろうという意味において生じてくる、切なくも不幸な関係性なのでもある。彼ら二人の間には、病と死が欠かせない。それ以外では彼らは結局、互いに「連帯できなかった」のである。
 リウーの返答に対して見せた、タルーのその悲哀に満ちた表情からも窺えるように、彼らがそれぞれに抱えている、それぞれ互いの孤独が露わになったのも、実にこのテラスでの対話においてであった。

〈つづく〉

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