◆読書日記.《ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』》――その5
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◆読書日記.《ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』》――その4|オロカメン (note.com)
<2024年7月19日>
ここで再度、全体の命題群の流れをおさらいしておこう。
1~4まででウィトゲンシュタインは、現実世界と論理との関係性を綿密に検討し、それぞれの関係を紐づけしている。
その「紐づけ」の根拠として出される考え方が「写像理論」というもので、それが例えば「2.11 像は、論理空間の状況をあらわしている。事態が現実になっていることを、そして事態が現実になっていないことを、あらわしている。」(丘沢静也/訳)等と言う命題に現されているわけである。
現実世界を言語が説明できるのは、言語が現実世界の像として働いているからだ(3、事実の論理的像が思想である。)という事であり、その言語のルールとして「命題」という論理を骨子とした構造が存在していて、これによって人は「思考」しているのだ(4、思想とは有意味な命題である。)と考えた。
ここまでで、やっと現実世界~言語~論理といった別種の位相を持つものたちを紐づけ終わった。
そして、次の命題5番台「5 命題は要素命題の真理函数である。(要素命題はおのれ自身の真理函数である。)」からいよいよ「論理」のルールの内側に踏み込んでいく事となるわけである。
命題5番台は「真理函数(あるいは真理関数)」「操作(あるいは演算)」といった単語の意味と、ある程度の記号論理学のルールを理解しておいたほうが読みやすい(ちなみに「真理函数」は中平浩司の訳、「真理関数」は丘沢静也と野矢茂樹の訳、といったように訳者によってそれぞれ単語の表記が揺れる事があるので注意されたし)。以下、これらを整理していこう。
「5.1」番台からは命題5に書かれた「真理函数(真理関数)」というものの説明が始まる。
では、この「真理函数(あるいは真理関数)」とは一体何なのか。
ちょっと番号が飛ぶが「5.2」番台にその事がずばり記載されているので引用しよう。
このように「真理関数」とは命題を演算(または「操作」ともいう)して出てきた真偽の結果の事と考えて良いだろう。
そして、この結果は「5.1 真理関数は、列として並べることができる。 これが確率論の基礎である。」と言っているように、真と偽の組み合わせを「列として並べる」事が出来る。
この一覧を見てみると、この「真理関数」というものも、よりよくイメージが湧くのではないかと思われる。
この上の一覧が要素命題「p」「q」の真理関数を展開したものである。
が、『論考』の命題群を読んでいないと、上の一覧の意味は分からないだろうから、いちおうそれぞれの言葉も説明しよう。
・「p」と「q」は要素命題(あるいは単に命題)の事である。
・「W」は「真(wahr)」を指し、「F」は「偽(falsch)」を指す。(命題「4.31」番より抜粋。)
・読み方としては、例えば具体的に(FWWW)を説明するならば……
F:「pが成り立っている(真)、qも成り立っている(真)」のであれば、この命題は偽である。
W:「pが成り立っている(真)が、qは成り立っていない(偽)」のであれば、この命題は真である。
W:「pは成り立っていない(偽)が、qが成り立っている(真)」のであれば、この命題は真である。
W:「pは成り立っていない(偽)、qも成り立っていない(偽)」のであれば、この命題は真である。
という事となる。
この(FWWW)の意味をもっとパラフレーズするならば、「命題pも命題qも両方とも成り立っているという状況はありえない。どちらか片方の命題は間違っていて、あるいは両方とも間違っている可能性もある」という事となるだろう。
それを上の表では簡潔に「pかつq、ではない。」と言う風に表現しているのである。
更に、それを論理記号のみで表現すると(~(p.q))となる。
それぞれの論理記号は「~」が「○○ではない」という演算(操作)を行う記号で、「.」が「〇〇かつ○○」という演算(操作)を行う記号である。
※ウィトゲンシュタインの使っている論理記号は環境依存文字なので省略したが、『論考』には頻出するので、念のためそれぞれの意味を画像で下に記載しておく。
※参考:論理記号の一覧(Wiki)
このように、要素命題の真と偽の組み合わせの全パターンを展開して分かるのは、これらの真理函数は一方の極に「同語反復」があり、もう一方の極に「矛盾」がある、という事。この「同語反復」と「矛盾」を両極として、その間に命題のあらゆるパターンが展開される……という形式になっているのである。
命題「5.3」に「あらゆる命題は、要素命題に真理操作を施すことによって得られる結果である。」とあるように、命題は、要素命題を操作(演算)して得られた結果(トートロジーと矛盾命題との間にある命題群のいずれか)である。
斯様に5番台からは様々なルールの断片的な説明を組み合わせていく事で、『論考』で構築される論理学の全体像を把握していかねばならないのだが、このように見ていくと、この『論考』の記述と言うものがいかに簡潔で言葉を削いでおり、具体例に乏しいために分かりにくくなっているのかと言う事がわかる。
説明されたルールの「具体化」は読者にゆだねられるし、断片的に説明されて行くルールを踏まえて全体像を把握するというのも、これでなかなか骨の折れる作業である。
『論考』が、150ページほどしかない小冊子であるにもかかわらず、これを本当の意味で「読んだ」と言う事がいかに難しいかと言うのがよくわかるだろう。
※因みにぼくも、上の様な文章を何も「皆さんに教えてあげましょう」的なスタンスで書いているわけではない。いちいち読み終わった部分の内容を自分なりにかみ砕いて記録しておかないと、難し過ぎてのちのち混乱しそうだからこういう情報の整理を行っているのである。
◆◆◆
……と言う事で、いよいよ命題5番台からぼくの苦手な、抽象的な記号操作を扱う論理学の詳細なルール説明が本格的に始まる。
それぞれの命題群のテーマは何なのか、黒田亘・編『世界の思想家23 ウィトゲンシュタイン』には大まかに副題をつけているが、ぼくもそれに倣って黒田が省略している部分も含めてそれぞれの大まかなテーマをメモしている。
「5.11~5.132」真理根拠と命題の帰結関係について。
「5.133~5.1362」因果連鎖と意思の自由。「未来の事件を現在の事件から推論する事はできない」
「5.1511~5.156」確率命題について。
「5.2~」諸命題の構造には相互に内的関係がある。
「5.3~」真理函数と真理操作。
「5.4~5.442」「論理的対象」「論理定項(論理的常項)」なるものは存在しない。
……と、いまここら辺の命題群と格闘している所である。
ぼく個人としては正直な所、5番台の記号を使った抽象的な議論になってくると急速に興味を失っていってしまう。
というより、ウィトゲンシュタイン自身がほぼ具体的な議論を諦めてしまっているかのような印象さえある。
そもそも各議論を行うにあたってベースとなるべき「要素命題」というものからして、具体化しきれない抽象的なものであるから、それを踏まえた議論が具体化しきれないのは理の当然といえよう。
この「要素命題」というのは、もうこれ以上細かい内容に分割する事の出来ない、最小単位の命題の事だと思えば良いだろう。
で、ウィトゲンシュタインが「要素命題」の具体的な例を一切揚げていないのと言うのは本書の特徴の一つともなっているが、具体例を挙げられないのには、それ相応の理由があるのである。
以前の記事でも言ったように、そのあたりの事情は野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』に詳しい説明がある。
上の文章の補足説明をすると、「論理語」というのは具体的なモノの事ではなくて、命題を操作する「○○ならば○○」や「○○かつ○○」といった「ならば」「かつ」といった語彙の事を言っている(ウィトゲンシュタイン自身はこれを「論理定項」と名付けているが、野矢は「論理語」という「もっと何気ない言葉」を使っている)。
要するに、記号論理学としては、論理の基礎をなす命題を論理によって操作していく上で、厳密なルールとして「最小単位」というものを設定しなければならない。が、実際に「現実世界」において「最小単位」などと呼ぶべきものを、いったいどう設定すればいいのか?……それを考え出したらきりがない、というわけなのである。
前回の記事でも指摘した通り、ここでも「言語」というもののあまりの曖昧さであり、「現実」というものの計れなさというものが、『論理哲学論考』の大きな問題として立ちはだかっているわけである。
日常言語で現される単語の「最小単位」や、現実世界の物事に対して「最小単位」などというものを想定するのは、アナログを強引にデジタルに変換するようなもので、当を得た操作ではなかったのだ。
だからこそ『論考』においてウィトゲンシュタインは、厳密なルールを作る際に必要な要素命題なる「最小単位」を設定する上で、遂にそれを具体化しきれず「概念上のもの」でしかないものにしておかざるを得なかったのである。
「最小単位」が具体例を挙げられない抽象的なものでしかない以上、それを操作して現される様々な命題についても、一切具体例を挙げられないのは当然で、かくて『論考』の命題5番台は、非常に抽象性の高い、無味乾燥な記号操作のルール説明のようなものになってしまっているわけである。
◆◆◆
※以下、「◆読書日記.《ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』》――その6」に続く。
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