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『現代思想』 [特集] 自由意志 : 思考主体の〈アポリア〉

書評:『現代思想』2021年8月号[特集]自由意志 脳と心をめぐるアポリア(青土社)

本書の内容は、次の紹介文に尽きるだろう。

“自由な決定"は希望か、それとも幻想か
「人間は自由に意志決定しうるか」というのは古くからある問いである。しかし近年の脳神経科学をはじめとする自然科学の発展により議論は多様化し、「自由意志は存在しない」という意見も無視できないものになりつつある。本特集では新たな時代を迎えた自由意志をめぐる問題系、その再編と進化の途上を一望する。 』

私の場合、「心」とか「自由意志」とかいったものは、基本的には「自明なこと」でしかなかった。多くの人もそうであろう。そうでなかったら、その人は、脳を病んでると見て良い。つまり「私は、何かに操られている」という「実感」を持つことは、文字どおり「異常」であり、正常な人間であれば、そんな「実感」を持つことはできない、ように出来ているからだ。そんなことを、本気で感じているようでは、日常生活は営めないのである。

しかし、「人間として正常」であるというのは、必ずしも「客観的に正しい認知」だけによって生きている、ということではない。「合理的に誤った認知」によってこそ、人間は、あるいは生物は「正常に生きる」ことができている部分が少なくないからである。つまり、そういう意味での「誤った認知」は、人間が生きるために必要なものなのである(わかりやすい例だと、「街を歩けば、いつ上から物が落ちてくるかもしれない」などと、常時正しく疑っていては、都会生活はできない、など)。

例えば「盲点」
人間の視覚には、盲点が(客観的に)存在する。それは構造的なものであり、簡単な実験で確かめることが可能な、物理学的事実である。

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では、人間は通常、なぜこの「盲点」が見えない(認知できない)のだろうか?
「見えない部分のあることが、見える(了解できる)」方が、「見えない部分のあることが、見えない(了解できない)」よりも好ましいのではないか。

あるいはそうかもしれないが、事実としては「見えない部分のあることが、見えない」方が便利だからこそ、人間の目からは「盲点」が消されているのであろう。
実際に自分の視覚の中央に「見えない部分」があっては不便だから、脳がその周辺情報によって、その「抜け」の部分を穴埋めして、「すべて」が見えているように錯覚させているのだ。

こう説明すると、「見えない部分があったとしても、それは〝馴れ〟によって気にならなくなり、日常生活でも大きな問題ではなくなるのではないか?」と問う人のいるだろう。確かにそうだ。後天的な視覚の一部欠如などは、そのようにして補われて、気にならなくなるからである。
一一しかし、この場合も、「見えない部分」が見えるようになるのではなく、あくまでも「気にならなくなる」だけでしかない。そして、これは「盲点」も同じなのである。

「盲点」もまた、脳の「錯覚機能」によって「気にならなく」されているだけで、見えるようになっているわけではない。要は、同じ「見えない部分」があって、そこの情報は、周囲の情報で「不完全なりに補う」ということであれば、それは「自覚的(意識的)」に行うのではなく、脳によって「無意識」に行うという自動化のなされた方が、負荷が少ないに決まっている。だからこそ、「盲点」は、脳によって自動的に消されているのである。そして、この合理化機能は、生存のために合理的(便利)であるからこそ、進化の中で備えられてきたのだ。

そこで話を戻すと、では「自由意志」はどうか。一一「自由意志は在るのか?」という難題である。

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通常、私たちは「自由意志はある」と思っている。「心」もあると思っているが、本当にそんなものはあるのだろうか?

もしかすると、「自由意志はある」「心はある」と思っている方が、生物として生きやすい(合理的)だから、「あると錯覚している」だけなのではないだろうか?

どうして、こんな面倒くさいことを考えるのかというと、人間という生物も、どんどん切り刻んでいけば、原子にまで分解される「物」だからであり、その点では、石くれなどの「無生物」と同じだからだ。つまり、同じ「部品」で作られているのに、一方が「生物」であり、もう一方が「無生物」だとすると、その境界は、どうなっているのか? 果たして、明確な境界などあるのか?

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さらに「無生物」が、地球環境の変化などの化学反応によって複雑に合成された結果として「単細胞生物」が生まれ、それが進化して「人間」にまでなったのだとしたら、「心」とか「自由意志」なんてものは、「どの段階で」生まれたのか? そもそも、「心や自由意志」を持つ生物と持たない生物に「境界線」などあるのだろうか?

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例えば、犬や猫に、心や自由意志はあるのだろうかないのだろうか? あるいは、カブトムシやバッタなどの昆虫に、心や自由意志はあるのだろうか? ミジンコには、心や自由意志があるのだろうかないのだろうか?
一一あなたはこうした疑問に対して、合理的な説明ができるだろうか?

無論、できないはずだ。
思い込みや希望的観測で断定するだけなら可能だが、誰もが納得のいく「線引きの合理性」を語ることは、今のところ誰にも出来ないからこそ「心や自由意志」の問題は「アポリア(難問)」となっているのであり、ことに近年では「AI(人工知能)」の急速な発展によって、「心とは何か」「自由意志とは何か」という「(定義的)難問」に、注目が集まっている。

このまま「AI」がどんどん進化してゆき、「複雑」を超えて「自由に見える」ような「振るまい=演算結果」を出すようになった時、それは「自由意志」の表明と「理解」して良いのか。それをして「心を備えた」のだと見ていいのか。

「AI」を備え、完璧な人間の外装をまとったロボットが開発され、外見的にも会話行動などにおいても、人間とまったく異ならないものになった時(つまり、人間と区別できなくなった時)、そのロボットは「心」を持ち、「自由意志」を持った、と認めるべきなのか、そう「見えているだけ、と考えるべき」なのか?

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しかし、現実問題として、精神の病いや脳の損傷になどによって、脳機能が極めて縮小された人間よりも、そうしたロボットの方が、よほど「人間的」であったとしたら、それでもロボットに「心」を認めないというのは、合理的な判断なのか? 「人間そっくりなロボット」に「心」を認めないというのは、「大脳新皮質の機能の多くを失った植物人間」に「人権」を認めない「優生学」的な発想と、一体どこがどう違うというのか。それは、人間側の都合による、「生まれ」の違いによる「差別」なのではないのだろうか?

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このように「自由意志」や「心」の問題は、決して尋常一様なものではなく、今のところ「政治的かつ人間倫理的な判断」で「恣意的な線引き」がなされている、と言っていいだろう。

無論、その「手前味噌」を責めることは簡単だが、では実際問題としてどうするのか。
そもそも、どこにも完全に合理的な根拠(絶対確実な真理=神)など存在しないから、完全に合理的な判断決定はできないのだが、「完璧には判断できないから、しない、では済まされないだろう」と反論されれば、まったくその通りであり、だからこそ、次善の策として「政治的かつ人間倫理的な判断」によって「線引き」がなされているのである(「裁判」を考えてみると良い。「完璧ではないから判断しない」で、世の中は回るだろうか)。

そんなわけで、本号には、関連ジャンルの多様な学者や評論家が、それぞれに興味深い「見方」や「見解」を寄せている。しかし、当然のことながら「最終回答としての正解」は与えられていない。ここにあるのは「未解決案件の検討」であって「正解の提供」ではないのだ。

だから、物足りないという読者も少なくないだろう。だが、Amazonのカスタマーレビューでは、レビュアー「HIGUCHI Kenichi」氏「網羅的だが既に馴染んでいることが必要、結論は出ない」というタイトルのレビューを寄せているとおりで、本誌本号を読んで、お手軽に「答を得よう」などと考えたら、失望に終わること必至なのである。

したがって、本号は、「HIGUCHI Kenichi」氏も指摘のとおり、これまで自分なりにこのアポリアに取り組んできた人間(自分の頭を使ってきた人間)が、その思考を整理し、さらに多様な参考意見に接して「思考を深める」ためにある、と言っていいだろう。

そういう意味において、本号はハードルが高く、読者を選ぶ(考える読者だけを選ぶ)特集号だと言えるのである。

(2022年5月5日)

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