古橋信孝 『ミステリーで読む戦後史』 : 研究者と評論家の違い
書評:古橋信孝『ミステリーで読む戦後史』(平凡社新書)
私が現役のミステリマニアであった頃には、この種の本を手にとることはまったくなかった。なぜなら、ミステリについて知りたいなら、ミステリを(あるいはミステリ評論書を)読めばいいし、戦後史を学びたいのであれば、戦後史の本を読めばいいのであって、その折衷的な形式では「ヌルい本」しか書けないだろうと思っていたからである。
しかし、ミステリマニアをであることを辞めてすでに10年以上が経つし、自分の経験したことが、すでに「歴史」になっていると実感する今日この頃なので、そんな時代経験を大局的な視点で語ったものを読んだら、それはそれでなにか発見があるのではあるまいかと、本書を手に取ったのだが、一一その結果は、他のレビュアーの感想とまったく同じであった。
古典文学の研究者である著者は「はじめに」において、古典文学を楽しむためには、古典の背景を知らなければならない、現代の文学観を自明の前提として古典文学を読めば「なにが面白いのか分からない」ということになるのは当然だ、と語る。
そうした著者の立場から、本書では日本の戦後史を、ミステリを通して語ろうとした、あるいは戦後ミステリの背後にある「戦後の精神史」を語ろうとしたのが、本書なのであるが、本書が多くの読者によって「物足りない」ものになってしまったのは、本書の読者が、多かれ少なかれ、その戦後史を生きた当事者であったからである。
古典文学についての時代背景や時代精神といったものは、積極的に学ばないかぎり、理解することはかなわないが、同時代史やその精神史であれば、学者や評論家のように上手に「言語化」はできなくても、多くの人は体験的には知っている。
だから、この手の本の著者に求められるのは、その「同時代体験の言語化」の「巧みさ」や「深さ・鋭さ」なのだが、いかんせん本書の著者の手際は「お説ごもっとも」という感想にしかならない凡庸なものだったのである。
したがって、やはり、この種の形式は、基本的には中途半端なのである。
それでも、読者をうならせたいのであれば、このような「当たり前な読解」に自足しない「深さ・鋭さ」、つまり「評論家的鋭敏さ」が求められるのであるが、著者は「篤実な研究者」ではあっても「優れた評論家」ではなかったのであろう。
初出:2019年4月8日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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