ティモシー・ウェア 『正教会入門』 : 信仰者の 建前と本音
書評:ティモシー・ウェア『正教会入門』(新教出版社)
一言でいえば「護教書」である。
護教書とは「この教えは、絶対に正しい。合理的な根拠など示せないし、そんなものは無いけれども、とにかくこの教えが正しいというのが真実なのだから、正しいのである。したがって、この信仰は素晴らしい」という趣旨の事が書かれた「信仰的」書物のことである。
だから、同じ信仰を持っている信者は、この本を無条件に絶賛する。
とにかく「自分が信じたいものとしての、自分の信仰」を、絶対的に肯定して絶賛してくれるのだから、こんなに嬉しいことはないからだ。
しかし、本書を読んで「正教会の信仰」を「理解したい」という読者には、本書は完全な失望しか与えない。
とにかく「我々はこんなにすごい。それに比べれば、よその教派はこんなにダメだ」という「自慢話」が延々と連ねられているだけで、その自慢する事実の「客観的根拠」は、まったく示されていないからだ。「ああ、そういうお話なのですね」とでも応ずるしかない、独り善がりに終始するだけの「仲人口本」なのである。
ともあれ「本人をして語らしめよ」。
本書の性格を、端的に示す部分を紹介しよう。
なかなかの「臆面のなさ」ではないだろうか。
もちろん、二人の年少の兄弟に擬せられているのは「カトリックとプロテスタント」である。
この文章のスゴイところは、これが最終章である第16章「正教会と他のキリスト教会との再合同」の、いちばん最後の「相互に学ぶこと」と題された節に書かれたものである点だ。
つまり、ここまでに何度も「正教会と他のキリスト教会との再合同」の必要性とその重要性を、良識派ぶって、もっともらしく繰り返しつつも、著者であるティモシー・ウェアの「本音はコレだった」という話なのだ。
私自身は、カトリックでもプロテスタントでもなく、クリスチャンですらなく、信仰者ですらない無神論者だ。しかし、これを読んだら、さすがに「カトリックやプロテスタントに失礼だろう」という義憤にかられざるを得ない。
もちろん、本書に、正教徒であるウェアがここまでカトリックやプロテスタントを見下すだけの「合理的な根拠」が明示されているのであれば、それを正当な自己評価であると追認しないでもない。しかし、そんなものは、まったく示されてはいない。あるのは「正教会側の一方的な決めつけ」でしかないのだ。
上の引用部分に続いて、著者は現代キリスト教界における正教会の役割を、次のように語る。
要は、ながらく西欧近代の「哲学的伝統」や「近代的合理主義」や「科学的思考」を知らず、東欧世界で「土着的で神秘主義的な形態を温存してきた」正教会という化石的存在が、社会主義国家陣営の崩壊によって西方から再発見され、にわかに脚光を浴びたことに浮かれて「我こそは、キリスト教信仰本来の形式であるから、西欧キリスト教界は、近代的理性の迷妄など棄てて、我々に学べ。我々も君たちの迷妄を知ることによって、我々の信仰の本領を再確認することが出来るのだから、お互い、実にありがたいことである」と言っているのである。
そしてこれが、著者ティモシー・ウェアの言う「相互に学ぶこと」なのだ。
そうとう図太い神経がなければ、とうてい人前には出せない「自己中の極み」のような文章だが、同じ正教徒である翻訳者には、そのことに気づけないようなのだから、まことに信仰は怖い。
ここまでこのレビューを読んできた、非正教徒の読者には、ティモシー・ウェアに『バランスのよい的確な全体像を示』すことなど出来ないことは、容易に理解できるだろう。
『バランスのよい的確な』という形容は、あくまでも「正教徒にとって」という、限定的で主観的な条件付きでしかない。なにしろ「正教会の護教書」なのだから、仕方がない。
はっきり言って「陳腐な、著者よいしょストーリー」である。
立場を変えて言えば、本書は「半端者の転向教養人による、転向後の忠誠誓約書」みたいなものだと評しても、決して過言ではない。
たしかに、著者のウェアは「良い大学を卒業」して、正教で「出世した」人である。そんな「学歴や肩書き」を、同信の仲間として自慢するのも結構だが、その「正教徒のなかでも有数の教養人」としてご立派なはずの著者が、この程度なのでは「あとも推して知るべし」と皮肉られても仕方あるまい。
公刊書の読者は、著者や翻訳者の「一方的な言い分」を鵜呑みにするほど「思考停止」した者ばかりではないのだと知るべきである。「世間(読書界)」は、そう甘くないのだ。
ついでに言っておけば、カトリック神学やプロテスタント神学を齧った「非信仰者」にとっては、「フィリオクェ論争」など、信仰の本質からは縁遠い「キリスト教村内でしか意味を為さない、スコラ的瑣末論争」でしかない。
だが、ここだけは(カトリックに対して)確実に正教の側に分のある話だから、本書でもここが強調されているのである。
止めに、著者ウェアの「物の考え方」をよく示した部分を引用しておこう。
本書は、このような「信用ならない著者」によって書かれたものなのである。
信仰者とは、斯くも度しがたい「自己中の独善家」である。
本書の著者ティモシー・ウェアもまた、信仰の真理のためならば、暴力も嘘も恥じないだろう。
初出:2018年1月6日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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