ゲルト・タイセン 『批判的信仰の論拠 宗教批判に耐え得るものは何か』 : 〈誠実な信仰〉の限界
書評:ゲルト・タイセン『批判的信仰の論拠 宗教批判に耐え得るものは何か』(岩波書店)
私の前に書かれた二つのレビューが、いずれも素っ気ないほど短い理由は、本書を読んだ者にならよくわかる。要は、難しいのである。難しいのに、著者以外には、あまり得るところがないと言うか、要は諸手を上げて賛成しにくい意見なので、無難に「良い本です」といった感想になったのであろう。
本書は、どのような本なのかを、大づかみに紹介しておこう。
要は、本書は「我々は信仰者として、積極的かつ主体的に宗教批判を受けとめるべきである。その上でなお、可能な信仰というものの姿とはどのようなものなのかを、ここに示そう」というものである。
つまり、著者の態度は極めてリベラルではあるものの、しかし「信仰」そのものの正しさは「自明の前提」とされている。「信仰的真理」は自明のものだからこそ、いくら疑っても大丈夫、何も怖れることはないから、どんな批判でも受けてみせよう、というものなのだ。
ただし、著者の言う「信仰的真理」とは、従来の「キリスト教理解」そのもの、ではない。そうした歴史性に限定された「キリスト教信仰」という形骸ではなく、著者は著者自身の考える「キリスト教的真理」を、あらゆる『宗教批判に耐え得るもの』として積極的に提示するのである。
したがって、これまでの「伝統的キリスト教」に固執する人たちは、著者の見解などとうてい支持できない(異端の説でしかない)し、著者と同じくリベラルな新自由主義プロテスタント的に立場にある人たちも、基本姿勢には同意できても、著者の考える「キリスト教的真理」こそが「真のキリスト教的真理」とまでは同意できない。
著者の誠実さは認めるし尊敬するけれども、彼の「キリスト教的真理」が唯一正しい「キリスト教的真理」理解だとは思わない、ということになるのである。
したがって、本書で示された著者の「キリスト教的真理」理解は、あくまでも著者個人の見解を公にするものに止まって、多くの賛同者を得るといった性格のものではない。だからこそ、たぶんプロテスタントであろう先の二人のレビュアーも、「良い本」だとは書いても「著者の考えに同意する」とは書けなかったのであろう。
さて、では私はどうなのか?
私は無神論者であり、クリスチャンですらないのだから、当然、著者の「キリスト教的真理」理解になどに同意はできない。
と言うか、正確には「キリスト教的真理」などといったものは、そもそも存在しておらず、著者の「キリスト教的真理」理解とは、「誤った前提に基づく、ひとつの誠実な意見」にすぎない、ということになるのである。
私も、著者の誠実さを疑いはしないのだが、しかし「信仰的真理」あるいは「信仰的真理」の実在といった、所詮は「願望的幻想」の存在を「自明の前提」としている段階で、本書に書かれていることは、大前提として「間違い」なのである。
「信仰的真理」とは、基本的に「存在しない真理」とでも呼ぶべきものであり、語義矛盾のレトリック的な(自己欺瞞の)産物なのである。
初出:2019年6月17日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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