宮田光雄 『ボンヘッファー 反ナチ抵抗者の 生涯と思想』 : キリストに倣いて
書評:宮田光雄『ボンヘッファー 反ナチ抵抗者の生涯と思想』(岩波現代文庫)
ディートリヒ・ボンヘッファーは、反ナチの抵抗運動に参加して、ベルリン陥落を目前にした大戦末期に絞首刑された、ドイツのプロテスタント神学者である。キリスト教神学者の中では、最も有名な一人であろうが、もちろん日本の非クリスチャンは、彼の名を知らなくて当然である。
彼の真摯かつ鮮烈な生涯が、キリスト教界で注目を浴びたのは、戦後において、戦中のキリスト教会の振舞いが、反省される中でのことであった。
だが、その後「戦争の記憶」が風化するにしたがい、ふたたびキリスト教会の自己権威化(保守反動)がすすみ始めると、彼がヒトラー暗殺計画の存在をも承知した活動家であったことをして「結局は、信仰の道を貫けず、世俗の方法に走った」という、訳知り顔の評価が幅を利かすようになってきてもいるようだ。
「汝、殺すなかれ」という有名な「モーセの十戒」の一つは、旧約聖書の「出エジプト記」にある言葉で、キリスト教徒は無論、そうでない者にとっても、基本的な倫理として支持される戒めであろう。
しかし、自身や国益のためではなく、ナチ政権によって迫害され殺されていたユダヤ人をはじめとした人たち(弱者)のために、そして、あるべき祖国のために、ボンフェッファーたち心あるドイツ人は抵抗運動を組織し、それに命を賭したのだ。
それを、キリスト教会のためになら、人殺しの罪を数知れず犯してきた、自称「正統派のキリスト教徒たち」とその末裔が、被害者の存在には目もくれず、自分たちの手を汚さないことだけに専心して「我は賢し」「我は正し」とするのは、本当にキリスト(救済者)の信者の態度だと言えるのだろうか。
しかし、これは今昔東西を問わない、キリスト教界(この世の教会)の難問なのである。
いまやボンヘッファーは、非キリスト教徒にこそ尊敬される偉人であって、多くの保守的キリスト教徒には、かえって「目障りな存在」とすら思われているのかもしれない。
しかし、それは当然のことだろう。ボンヘッファーは、圧倒的な暴力性を体現した、かのナチ政権に、命を賭して抵抗した人であり、それに比べれば、私たちが今ここで抵抗しなければならない悪しき政治権力など、多寡が知れていよう。にもかかわらず、私たちにはボンヘッファーが体現した、勇気の欠片も持たないからである。
キリスト教徒であれ、非キリスト教徒であれ、比較的恵まれた平穏な生活を送っておれば、「多少の悪」や「多少の犠牲」は見て見ぬふりをしてでも、自分一個の生活を守りたいし、それを脅かすようなことはしたくない。そう考えるのは、自然な人情である。
しかし、ボンヘッファーの発する、まばゆいばかりの信仰の輝きは、そうした薄暗い「欺瞞的な態度」を許さない。とくにキリスト教徒には、キリスト教徒であるが故に、そうした「悪しきこの世性」に止まることを許さない。
ボンヘッファーは、「この世」の先にある「究極的なもの」としての神の領域を信じるキリスト教徒として、キリスト教徒には、使命の地(座)としての「この世」において「究極以前のもの」における使命を果たす責任がある、と考える。そのため、「この世」に埋没し、「究極的なもの」を知るが故に「究極以前のもの」たる「この世」への責任から免責されていると考えたいキリスト教徒たちによって煙たがられるというのは、理の当然なのだ。
しかし、もとより人間は、この世において「罪」ある存在(原罪を負うた存在)であり、その使命を果たすにおいても、時に「罪」を引き受けなければならない。また、その覚悟が無ければ、この世における責任は負えない、とボンヘッファーは考える。
「究極的なもの」とつながりながらも、「究極以前のもの」たる私が、「究極以前のもの」たる「この世」について行動するとき、そこでは、「罪」とは完全には避けられないものである(なぜなら、人間には、すべてや未来は見通せない)ということを、私は自覚し、それを「究極的なもの」の権威において否定するのでも正当化するのでもなく、「究極以前のもの」たる私という存在の自覚として謙虚に受けとめて、すべての最終判断(裁定)を「究極的なもの」たる神に委ねるしかない。
私たちは、自身が負える最大の責任を引き受け、自身が負えない責任を負えると自負する傲慢を、謙虚に拒否すべきなのである。そして、そのような姿勢こそが「究極的なもの」と真につながる態度であり、それが『神に生きる』ということなのだ。
『罪の責任をとることから逃れようとする』ことは、結局のところ、人間であることを否認することであり、人となった神であるイエス・キリストの行ないの意義を否認することにもなる。人間は人間として、果たすべき責任を果たさなければならない。それをしないというのは、自らの罪を否認することで、逆に救いを拒絶する態度でしかないのである。
そう。この世は、神に与えられた、私たちのための世界なのである。だから、神は私たちのために、私たちへの信頼において、あえて手出しはしない。そして、私たちも神への信頼において、神の力に頼ることはしない。
私たちは、まるで神が存在しないかのように、しかし、それゆえに、この世界の全責任を引き受けて、自分の脚で立たなければならない。私たちは、神の愛を知るが故に、神から自立して「成人」しなければならない。助力を期待するような物欲しげな素振りをチラとも見せず、その腕と脚でこの世界を支える姿を神に見せる、そんな者でなければならない。
神(イエス・キリスト)が示された強さとは、その弱さにおいて、何者にも敗北しない強さである。とするならば、私たちは弱くとも、その弱さにおいて敗れることのない強さを、神に倣うべきであろう。私たちは、無力な神に倣って、力に生きるのではなく、弱き者に寄り添い、その苦しみを分かち合う弱さにおいて、強くあらねばならない。
宗教とは、力強き神、万能の神として、人間を子供のままに止めおく溺愛・過保護の神という、実は無力かつ有害な偶像を語るものだ。その意味において、キリストの生に学ぶ私たちは「宗教」を拒絶する人間である。
ボンヘッファーの言葉を、このように解釈することは、「無神論者」である私の思想に、なんら矛盾するものではない。これが意味するのは、ボンヘッファーが無神論者であるということなのか、あるいは私の方が、じつは信仰者だということなのか。
しかし、そうではないだろう。
ボンヘッファーの生き方を、あるいは私の考え方を否定して、「神の力」により頼もうとする人たちと、私たちの相違は、結局のところ、この世界への「信頼」の問題なのではないだろうか。
だから、ボンヘッファーとは逆に問おう。
《かりに神がいたとすれば》、神はどちらを嘉されるだろうか?
初出:2019年8月27日「Amazonレビュー」
(2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)
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