F・W・ムルナウ監督 『最後の人』 : 鵜呑みにして良いのか?
映画評:F・W・ムルナウ監督『最後の人』(1924年・ドイツ映画)
『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922年)、『都会の女』(1930年)に続いて、私が観たムルナウ作品の3本目となる本作だが、制作年は、この2作のあいだということになる。
『都会の女』は、ハリウッドに移ってからの作品だったが、本作『最後の女』はドイツ時代の作品。もちろん、モノクロサイレントだ。
この作品は、日本でだと「1926年キネマ旬報外国映画ベストテン第2位」だとか「淀川長治世界クラッシック名画傑作100選」などにも選ばれている。
また、衆目の一致した代表作である『サンライズ』(1927年)ほどではないとしても、ムルナウ監督を高く評価する蓮實重彦などが、時に本作の名を挙げることもあって、いずれにしろ、「名作」との評価は、すでに確定しているようで、「映画.com」や「Filmarks」などの映画サイトに寄せられた、映画マニアのレビューもまた、いかにも「評価の定まった名作」だといったものばかりといっても、決して過言ではないだろう。
しかしながら、今の私の目から見た感想はというと、ちょっと不満足で「まあまあ」といったところだろうか。
そのあたりについては後で詳しく説明するとして、ひとまず今の私には、この映画の「制作当時の斬新さ」がよくわからない、というのは大きい。
『吸血鬼ノスフェラトゥ』のレビューでも指摘したとおり、光と影のバランスに優れた絵づくりの巧みさといったことならわかるが、モンタージュの巧みさといったことまではわからない。当時の平均的な映画を観ていないからだし、今の映画は昔の映画の良いとこ取りをしていて、それに馴れている私の目に「当たり前」に映るものが、制作当時は斬新なものだった蓋然性は、十二分にあるからだ。
しかしまた、すべてを確認してから、おもむろに感想を書くということもできないから、現時点での私の感想ということで、率直なところを書かせていただくと、私が観た3本の中では、本作は最も不出来であったと思う。
『吸血鬼ノスフェラトゥ』と『都会の女』の2作は、いずれも極めて完成度の高い作品だったのだが、本作の場合は、いったん完成した「悲劇作品」に、多くの観客の要請に応えたとかいうことで、急転直下のハッピーエンドが後から付け足されて、いささか不自然な作りになっている、といったことがあるからだ。事実、この「付け足しハッピーエンド」は評判が悪い。
しかしながら、問題はそれだけではない。
この「付け足しハッピーエンド」が無く、悲劇のままで終わったとしても、やはり今の目から見ると、不十分と感じる部分があって、昔の作品とはいえ、もう少し描き込めなかったのかという憾みが残ったのだ。
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本作『最後の人』は、「映画.com」の「解説」によると、
となっており、ムルナウの「Wikipedia」には、
と書かれている。
(※ 「ドイツ語版」とは、付け足しハッピーエンドの無いオリジナル版、ということであろう。付け足し版は、アメリカでの公開のために要請されたもののようだ。平たく言えば、アメリカの客は、頭が悪くて、悲劇の意味がわからない、ということであろう)
つまり、名脚本家の脚本を『字幕を一切使わないという試み』と、斬新な『映像技術』によって映像化し、それが高く評価された、ということのようである。言い換えればこれは、技術的な面での評価が高かったということであって、内容的な評価がどうだったかは、あまりはっきりしないのだ。
で、私が観たDVDには淀川長治の口頭解説が付いていて、そこではストーリーと演技の面で、肯定的なフォローがなされている。しかし、一般向けには、作品を貶すことの少なかったらしい淀川長治の言うことだから、鵜呑みにはできないと私は思っている。
少し長くなるが、ストーリー紹介を兼ねて、上の口頭解説から起こされたものの全文を、次に引用しておこう。
つまり、名優が悲劇的なお話を好演している、ということである。
『吸血鬼ノスフェラトゥ』や『都会の女』もそうだが、これらの作品が撮られたのは、劇映画の黎明期であったため、俳優は舞台(出身)俳優ばかりであった。またそのため、今の映画やテレビドラマでのリアリズム寄りの演技に慣れた目からすると、その演技はかなり大袈裟で、まるで歌舞伎のように、目玉をぎょろぎょろさせたりする。
これは、カメラやフィルムの性能が低く、繊細な演技をしても、十分に写し取れなかったということもあるのだろうが、いずれにしろ、当時の映画を同時代的に知っている淀川長治などの世代とは違い、そうした演技を違和感なく自然に見ることは私には叶わず、当時のものとして「こういうものなのだろうな」と丸呑みするしかない。
映画マニアのレビューでは、「名優の名演」の一言で片づけられて、今の目で見て感じられる違和感についてはほぼ触れられていないが、今の目でこの作品を観る人には、必ず感じられるところだと思うので、実際はそういうものだというのは、知っておいて損はないと思う。
技術的な面で、私が面白いと思ったのは、エミール・ヤニングス演じるところの主人公の老人が、娘の結婚式で酒を飲み、酔っ払って夢をみるシーンの、夢のイメージである。
淀川長治の紹介にもあるとおり、このドアマンの老人は、上司であるホテルの支配人から「お客様の大きなカバンなどの、重い荷物を運ぶには、いささか歳をとりすぎたのではないか」と判断されたため、誇りを持ってやっていたドアマンの仕事から、洗面所の掃除係に配置転換され、彼の誇りであった「金モールの飾りがついた、軍服様のドアマンの制服」を取り上げられてしまう。
そのせいで「男たちが4、5人がかりでも持ち上げられないような非常に重い客のカバンを、彼が片手で軽々と持ち上げてしまう」という、彼の願望がそのまま反映された「夢の光景」も描かれるのだけれど、そこではなく、多重露出かつ変形加工された映像の部分が、モノクロということとも相まって、夢幻的な雰囲気をよく出していて、そこが面白いと私には感じられた。また、こうした「特殊効果」は、当時としてはかなり斬新なものだったのではないだろうか。
あと、主人公が住んでいる庶民向けの集合住宅のシーンは、すべてセットでの撮影ということのようだが、その「書き割り風の外観」が、いかにも「ドイツ表現派」という感じで、これも面白いと思った。
しかしながら、私は、こうした技巧的な絵作りや、『吸血鬼ノスフェラトゥ』同様の、ムルナウらしい「影」の劇的な使い方などをもって、彼の作品に「ドイツ表現派の名作」というレッテルを安易に貼ることには、疑問を感じてもいる。
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そんなわけで、ここまで書いたことをまとめると、当時の「演技」については、私には「評価不能」、「映像」面では「なかなか面白い」ということになる。だから、問題は、淀川長治が、
と評した、「ストーリー(物語の内容)」の部分である。
私がまず疑問に思ったのは、主人公がどうして、「ドアマン用の金モールの制服」に、あるいは、その制服が象徴する「ドアマンという職業」に、あれほどの「誇り」を持っていたのか、という点である。
普通に考えれば、当時であっても、ドアマンというのは決して社会的には高い地位が与えられているとは言いがたい職業で、言うなれば、ホテル版の「召使い」の一種といったところだろう。だから、その制服が、いくら金モールに飾り立てられた軍服風の「(華やかにも厳しい)権威的なもの」であったとしても、それは所詮「芝居の衣装」のようなものでしかなく、言い換えれば「偽物」にすぎない。
それなのに主人公は、まるでこの制服を「本物の将軍の軍服」ででもあるかのように誇らしげに身に纏い、それで客の荷物を運んだり、客のためにタクシーを呼んだりなど、いかにも活き活きと立ち働いていたのだ。
無論、これは「学のない庶民階層の老人」が、本来なら着る機会などなかったはずの「たいそう立派な制服」を着せられ、自分が偉くなったような気分に酔うことができた結果、その幻想の中で楽しく仕事をすることができた、ということなのかもしれない。また、普通はそのように解釈して、「無知な老人の、哀れな権威主義的依存の対象物である制服が奪われたための悲劇」だと理解して、「可哀想に」と、老人を憐れむのかもしれない。
しかし、そうだとすると、この老人の悲劇は、「誇りとしていた職業を奪われた悲劇」だというよりは、「権威主義的幻想に依存していた老人の、無知の悲劇」だということになるのではないか。
つまり、そもそも「ドアマン用の金モールの制服」なんかに依存して、過大な自己満足になど浸ってさえいなければ、洗面所係に配転されたところで、それを死ぬほどまでに恥じて、落ち込むこともなかったのではないか。
言い換えれば、この映画の悲劇性を素直に受け入れる人というのは、「ドアマン」も「洗面所係」も、共に社会的には「高い地位を与えられていない」ということを知っていながら、その職業差別的に見下された「低い地位」の中での、さらに「職業差別的な幻想(差別の中の差別)」を、追認していることになるのではないだろうか。
主人公の老人が、「金モールの制服」に過大な幻想を抱いて「偉くなったつもり」になどなっていなければ、「洗面所係」に配転されたところで、そこまで落ち込むこともなく、新しい仕事にも、それなりに誇りを持って取り組むことだって出来たのではないだろうか。
じっさい、支配人が彼を「洗面所係」へ配転したのは、彼の体力的な限界を見てのことであり、決して悪意からではないのだ。たしかに見栄えは悪くなり、給料も多少は下がったかもしれないが、しかし、仕事が格段に楽になったというのも確かで、彼自身が嘆いているのは、もっぱら「見栄え」の問題であって、言うなれば「見栄」なのである。
彼が、こうした「金モールの制服」への過大な「誇り=自慢」を持ったのは、単にその制服の見栄えが良いというだけではなく、なぜか彼の隣人たちが、制服姿で歩いて通勤する彼の姿に、まるで本物の将軍に対するかのように敬意を示したからである。
たしかに制服を着、その自信によって堂々と振る舞う、恰幅のいい彼の様子は、本物の将軍のような貫禄がある。彼が、完全に「なりきっていた」からなのだが、しかし、普通に考えて、そんな「偉い人」が、庶民の住む集合住宅になど住んでいるわけがないのだから、皆も彼が本物の将軍ではないことくらいは知っているし、たぶん「ドアマンでしかない」ことも知っている。にもかかわらず、「本物の将軍」ででもあるかのように、敬意をもって彼を遇したのは、彼の「本物の自信=幻想の力=思い込みの力」がそうさせたのであろう、というところまでは理解して良い。
しかし、それは、ある意味では彼のことを「勘違い爺さん」だとを知っていながら、あえて調子を合わせていたということにもなろうし、腹の底で嗤っている部分さえあったのではないだろうか。要は「近所の名物爺さん」という認識である。
また、だからこそ、彼がドアマンから洗面所係に配転され、もはや「金モールの制服」を着れなくなったというのを知ると、近所の人たちは、それを「笑い話のタネ」にしたのであろう。
したがって、「金モールの制服」を着ていた頃の彼への「敬意」は、所詮「偽物」であり、それを真に受けていた彼は、やっぱり、学のない、権威主義的な「粗忽者」であり「道化」でしかなかったという他ないだろう。
だとすれば、彼の「悲劇」とは、「誇りを奪われた老人の悲劇」というよりも、「誤った権威主義的幻想に依存したが故の悲劇」ということになるのではないだろうか。
一一だが、淀川長治のそれも含めて、本作の評価で、こうした「批判的観点」に立ったものは、まったく目につかない。
きっと、誰かがどこかで書いてはいるのだろうが、私と同じような問題意識を持って、この作品を評価した人は極めて少ないようなのだ。しかし、そうした批判的観点を欠いた(一般的な)評価というのは、この主人公の老人と同様の、「権威盲従型」の「偏見」に満ちた評価だということになるのではないだろうか。
本作のような「古典的な名作」の場合、すでに「偉い人」たちが、この作品はこうだという評価をいくつも語っており、そこで「評価が定まっている」ため、そうしたものとは違った評価は、どうしても語りにくい。
また、「古典的な作品を、今の視点で見るのは間違いだ」という人口に膾炙した「正論」によって、自分の「正直な感想」を、あえて抑圧した人も少なくないだろう。
だが、本作における、主人公の「制服権威主義幻想による悲劇」を、そのまま「無条件に正当なもの」とするのは、ちょっと違うのではないかと私は思うのだが、さて、皆さんは、どちらの感想に「正当性」を感じられるだろうか?
(2023年9月12日)
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