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安野モヨコ 『ハッピー・マニア』 : 「幸福」と「妄執」

書評:安野モヨコ『ハッピー・マニア』(新装版全8巻・祥伝社 Feelコミックス)

1995年の作品で、安野モヨコの「初期作品」である。
しかも、3年後にテレビドラマ化されているから、出世作だということなのかもしれない。

(元版・第1巻)

とにかく、いわゆる「ギャル」を主人公にしたマンガだったから、作品はもとより作者にも長らく興味がなかったのだが、どういうきっかけだったか、「朝日新聞」に連載された『オチビサン』に一時期ハマり、その後『新世紀エヴァンゲリオン』で知られるアニメ監督の庵野秀明と結婚したというのを知ったあたりから、多少は興味を持つようになった。

しかし、かわいい漫画作品である『オチビサン』とギャル漫画である本作とが、同じ作者によるものだという認識まではなかったかもしれない。
こちとら、オタク体質の人間だから、ギャルには嫌悪や偏見こそあっても、興味はなかったのである。

で、そんな私がなぜ本作『ハッピー・マニア』に興味を持ったのかというと、先日読んだ、声優・宮村優子の対談集で、宮村が本書に言及していたからである。

『 ゆっくりと扉を閉めること

林原(※ 声優・林原めぐみ):私が昔、宮村は、安野モヨコさんの『ハッピー・マニア』の主人公に似ているって話したこと覚えてる?
宮村:ああ、重田加代子。
林原:そうそう。そんな話で盛り上がったときに、あなたは私の両手をがしっとつかんで「林原さん、私のフクちゃん(福永ヒロミ)になってください!」と言ったの、覚えてる? フクちゃんというのは加代子の親友で、いつも相談に乗っている人物なんだけど。
宮村:私はよく失敗するんです。例えば、ウソをついている人を見分けられなくて騙されてしまう。でも林原さんからすると「そんなもん一発でわかるでしょ!」という感じらしくて。なんか警告ランプ……パトランプみたいなものが回るらしいんですね。林原さんからすると。で、私はそのパトランプがなくて「めっちゃそのパトランプほしい! どこに売ってるんですか!」みたいな感じで。だから、林原さんにフクちゃんになってもらって一緒に住んでもらえたら私はすごくハッピーなのに! って思っていたんです。一緒に住めばはもちろん冗談ですけれど(笑)。
林原:宮村は久しぶりに会ったとき、いまどういう精神状態にいるかわかりやすいよね。上にいるか下にいるか、どっちかしかなくて。「あぁ、いま、地下3階かな」とか「いま屋上にいるな」とか。真ん中は無いのか真ん中はと(笑)。
宮村:「聞いてくださいよ、林原さん!」と会うなりテンション高く話しかけにいく(笑)。
林原:「こんなことがあってこんなことがあってひどいじゃないですかー!?」「ひどいじゃないですかの前に気づいて……」と私は思うけれど(笑)。気がつかない分、相手に向かって全身全霊で扉を開けるけれど、あるとき「あれっ? 間違っていた」と気が付いたとき、ゆっくり扉を閉めてフェードアウトすることができなくて急にバーン! と勢いよく閉めるでしょう。すると相手は当然、まだ扉が開いているものだと思って「あんなに開けてくれていたじゃないか!」となんなら逆上するわけですよ。
宮村:そうなんですよね。ただそういう時は「うん、そういうことだから、じゃあまたね……」とゆっくり扉を閉めなさいと林原さんに教わりました。
林原:これまで随分、諭してきたけれど、学んでいると思えない(笑)。
宮村:なんで学べないのかなあ(笑)。
林原:例えば、急にオーストラリアに行っちゃったのもすごいよね。ご家族の都合もあるとはいえ、仕事もあるのに、その決断もすごいし、仕事は辞めずにオーストラリアから日本まで通うと「ジェットスター(航空)、さまさまです!」と言っていたことにも驚いた(笑)。
宮村:声優一、ジェットスターに乗った女です。オーストラリアに行ったときは、私にとっては「いや、当たり前じゃないですか、行くに決まってるじゃないですかー」と100%迷いませんでしたが、いまから思えば、なんで私はあんな決断をしたんだろうなぁと考えるようにはなっています(笑)。
林原:うん。オーストラリアの日々を否定するわけでもないし、行ったことで広まった友人関係やわかったこともあるだろうから、悪いわけでは全然ないけれど、その突飛さはなかなか……。独特の気質ですよ。
宮村:ですね……。
林原:逆にそれを閉じ込めると苦しくなっちゃうだろうから気質は持ったままでいいと思う。ただ、屋上にいることを自覚しないではしゃぐのではなく、屋上にいることをわかったうえではしゃぐことをこれからは学んでほしいよ(笑)。「落ちるぞ、一歩でも出ると!」「落ちるまであと3歩だぞ!」というような危険な場所で「ヒャッホー!」とはしゃいでいるから心配になるよ(笑)。
宮村:「林原さん、聞いてくださいよー! 落ちると思わないじゃないですか! わあ〜!」(笑)。
林原:「いや、落ちるぞって言ったでしょう!」(笑)。このニュアンス、読んだかたに伝わるかしら(笑)。』

(『声優 宮村優子 対談集 アスカライソジ』P166〜169)

宮村優子とは、こういう「ちょっと問題のある人」なのだが、私はこういう「子供っぽさ」が好きなので、宮村が自身を投影したような主人公の登場するマンガで、しかも作者が『オチビサン』の安野モヨコなら、主人公がギャルであったも楽しめるのではないかとそう思い、今回いっき読みをしたというわけである。

(新装版・続編連載に合わせて刊行)

一一で、どうであったか?

楽しめることは楽しめたのだが、ラストはある意味で「ホラー的な怖さ」を感じさせるものがあったし、「人間について考えさせられる作品」になっていた。
つまり、基本的には、にぎやかで楽しい作品ではあるのだが、単純に「娯楽作品」とは断じ難い、微妙なところのある作品だったのだ。

 ○ ○ ○

『 あらすじ
重田加代子(愛称:シゲカヨ)は、自分だけ恋人がいないことに日々悩んでいた。理想の恋人を求めて突っ走るが、いつも何かに引っ掛かる。しかし失敗しても、すぐに立ち直りスタートに戻る。そんな彼女に振り回されるのが、シゲカヨの年上の親友・福永ヒロミ(愛称:フクちゃん)である。「そんな男に引っ掛かちゃダメよ」と言うが、実は自身もここ数年いい男が目の前に現れない。果たして、2人の「しあわせさがし」の行方は?』

(Wikipedia「ハッピー・マニア」より)

主人公であるシゲカヨのセリフで、とても印象的なのが「あたしは、あたしのことをスキな男なんて、キライなのよっ」である。

シゲカヨは、常に「イケメン限定のドラマティックな恋愛」に求めており、しかもそれが「ずーっと続く」ことを望んでいる。
つまり、「恋愛的な熱狂」を求めているのであって、「落ち着いた恋愛」とか、ましてや「温かい家庭を作るための結婚」などというものなど念頭にない。

だから、シゲカヨのことを一途に好いてくれるタカハシ(と呼び捨てにされる、高橋修一)のことなんて、うざったがってはいても、恋愛の対象と見ることなどできない。
タカハシは、良家の出である真面目な東大生で、顔だって決して悪くないのだが、シゲカヨが考えるような「イケメン」ではないし、前記のセリフのとおり、こちらが特に興味もないのに、好きだと言い寄ってくるような相手には、それがいくら「好人物」であってもダメなのだ。それはシゲカヨの恋愛対象ではなく、彼女が求める「ハッピー」をもたらしてくれる存在ではないのである。

つまり、シゲカヨの頭の中には「ドラマのような恋愛」しかなく、「現実問題」などという発想がまったくない。仮に期待するようなイケメンと出会い、いい雰囲気になって、セックスまで持ち込んだとしても、当然のことながら、そうした「ドラマのような展開」は永続するものではない。「達成されてしまった夢は、もはや夢ではない」のである。

だが、シゲカヨには、それがどうしても理解できない。「ドラマのような恋愛」が永遠に続くものだと漠然と思っており、たまたま相手が「それほどの男」ではなかったから、自分は裏切られたのだと思ってしまう。
だから、シゲカヨは、せっかく好いてくれているタカハシのことなど気にもかけずに、次の恋愛を求めていくのである。

そんなわけで、言ってしまえば、シゲカヨは「男好き」なのではない。彼女が欲しいのは、「イケメンの男」ではなく、彼女の「夢」を実現してくれる男なのである。
だが、そんな「永続する夢」を与えてやることなど誰にもできはしないというのは、言うなれば理の当然なのだが、シゲカヨは決してそのことに気づかない。気づきかけても、またイイ男を目に入ると、そっちに流されてしまい、いったんは反省したことだって、即座に忘れてしまうのである。

で、こういうシゲカヨのことを、今どきの読者であれば、「頭が悪い」「学習能力がない」「現実が見えていない」「恋愛中毒」などと感じるのは、決して不思議なことではない。
実際、Amazonのカスタマーレビュー(「新装版」「元版最終巻」)を見ても、そういう意見が散見されるのだが、しかし、この作品は「全11巻(元版)」まで刊行され、ドラマにもなったくらいだから、少なくとも連載当時には、多くの女性の共感を呼んだ作品だったのである。

では、どうして、現在では、その同じ共感を得られないのかということ、これはたぶん「時代の相違」である。

1995年といえば、かの「バブル経済」の余波の中にあった頃であり、言うなれば、老若男女を問わず、日本人の多くが、多かれ少なかれ「ハイ」になって、浮かれていた時代なのである。

そして、そうした時代だからこそ、多くの若い女性が、『男女7人夏物語』(1986年)に始まり、『東京ラブストーリー』(1991年)、『101回目のプロポーズ』(1991年)、『ロングバケーション』(1996年)といった(そうしたものに縁もゆかりもない私でさえ、タイトルだけは覚えている)「トレンディドラマ」で描かれた「夢のような恋愛」に憧れ得たし、そうした恋愛に、ある程度は「リアリティ」を感じられたのだ。

だから、現在のように、貧しくなった日本において、日々の生活の汲々とする若い女性が、シゲカヨに共感できないのは当然で、「こいつ、バカじゃないの」と怒りさえ覚えるというのも、むしろ当然のことなのだ。

言うなれば本作は、すでに「歴史的作品」になってしまっており、同時代的な経験のある高齢者であれば、「あの頃の空気」を思い出して、それを懐かしむこともできようが、そんな空気を吸ったことのない若い世代には、理解不能であって当然なのだ。
私たちが、室町時代の農民の「生活感覚」を、そのまま実感することが不可能なのと、これはほとんど同じことなのだと、そう考えて良いのではないだろうか。

したがって、私にとっては、本作は「共感できるか否か」を問題にするような作品ではないように思われる。

シゲカヨが生きていた時代のそれと似たような「空気」を、一度でも共有していないことには、昔であろうと今であろうと、彼女に共感することはできない。
だから、私が本稿で問題にしたいのは、そこではなく、本作のタイトルである「ハッピー・マニア」という言葉に関わる部分である。
つまり、シゲカヨを、一種の「ロマンティックな恋愛」中毒(依存)患者として、見てみようということなのだ。

 ○ ○ ○

シゲカヨを、ロマンティックな「恋愛中毒者」だと見るというのは、平たく言えば、「恋愛」とは「発情」であり「一時的な異常心理」であると見る、言うなれば「科学的な視点」である。

よく知られるように、人は「好きなもの(嗜好嗜癖対象)」を目にすると、脳内物質であるドーパミンβ-エンドルフィンなどが放出される。『快く感じる原因となる脳内報酬系の活性化』がなされ『鎮痛効果や気分の高揚・幸福感などが得られる』ことになるのだ。

つまり、シゲカヨのような「恋愛体質」の人というのは、「恋愛」というものが、こうした「脳内麻薬」の最も有効な「鍵(嗜好嗜癖対象)」となっているのであり、そうした「脳内麻薬」の気持ちよさに「中毒(依存)状態」にある人だと言えるだろう。

したがって、酒やタバコ、あるいは各種薬物の中毒者が、日頃は「もう止めよう」と考えていても、それ(依存対象)が目の前に現れれば、自制の利かない状態になるというのは、まさにそれが「中毒」というものであり、シゲカヨの場合には、その依存対象が「イケメンの男」だというだけの違いなのである。

つまり、私たちは「恋愛」だとか「家族愛」だとか「親子愛」だとかいったものを、もっぱら「精神的なもの(非物理現象)」だと考えがちだが、実際のところは、そうではない。

例えば、脳のある部分を物理的に損傷してしまうと、「恋愛」できなくなってしまう。誰かを「愛おしい」とか「可愛い」とか思えなくなってしまう。
なぜ、そうなってしまうのかというと、要は、そうした対象によって喚起され、放出されていた「脳内麻薬」が、その損傷によって放出されなくなってしまうからだ。

したがって、そこだけの損傷であれば、目の前の相手が「恋人」だとか「妻」だとか「自分の子」だと認識することまではできる。相手が「大切な人間であり、大切にしなければならない存在である」ということは、「理屈」では理解できる。しかし、「感情」としての「愛おしさ」や「可愛さ」が湧いてこないのだ。
相手は、ただ「恋人」だとか「妻」だとか「自分の子」だとかいった「レッテルの貼られた存在」ではあっても、だからといって、そのことで「感情が動かされることはない」。ただ、平板な感情において、相手を理性的に「分類認識」できるだけなのである。

このようなわけで、言うなれば、私たちはすべて、多かれ少なかれ「脳内物質」によって「作動」しているロボットみたいなものだと言えるだろう。「恋人」だから「妻」だから「自分の子」だから、おのずと(物理的な理由もなく)「愛おしく思う」のではない。

私たちは、自分の「脳内物質放出のツボ」を突いてくれる「条件を備えた対象」を「好き」になり、それを「愛おしい」と感じるように「できている」。
そして、それは当然のことながら、おおむね「種の保存」のための「物理的機構」によるものだと、そう考えても良いのである。

このように言ってしまうと、なんだかいかにも「冷たい科学主義(的認識)」みたいな感じになってしまうが、私が言いたいのは、そういうことではない。
こうしたことは、あくまでも「一面(物理的側面)の事実」であって、人間の「すべて」ではない、と考えているからだ。

事実として、人間の「精神」や「感情」が、物理的に生み出されるものだとしても、それはそれで独立的に意味や価値を有するものであり、「物理的に生み出されたもの」だから「即物的で無味乾燥」だとか「無意味」だとかいったことにはならないと考える。
例えば、「油絵」は「キャンバスに油絵の具を塗りたくった作品」という「物質」なのだが、だから「虚しい」だろうか? 「無意味」だろうか? 一一決して、そうではないはずだ。

これと同じことで、人間の「感情」や「思い」といったものも、たしかに「物理的現象」ではあるのだけれども、それは、そう「だから虚しい」ものなのではなく、「だとしても素晴らしい」賜物なのではないだろうか。

そして、このように遠回りした上で、私が言いたかったのは、シゲカヨは、決して単なる「バカ女」ではなく、ただ他の人より「恋愛」というファクターに対して、「脳内物質」が多量に放出されるようにできていた、そんな体質だった、ということでしかない、ということなのだ。

つまり、人間は個々に「何に反応するか」というのは、ある程度、先天的に持って生まれているであり、それを、すべて本人の責任に帰することはできないし、また、そうした「気質」というのは、たいがいの場合、改めようとして改められるようなものではない、というところが問題なのだ。

例えば、ある男性が「巨乳好きか、貧乳好きか」は、後天的な学習もあるだろうが、たぶん「持って生まれたもの」もあるはずだし、例えば「濃い顔が好きか、スッキリした顔が好きか」といったことなら、さらに先天的なものが大きいように思う。
というのも、私自身の恋愛経験に照らしても「どうして、私は、このパターンの女の子に惹かれるのか?」と、その理由が自分でもわからないからだ。

例えばここに2人の女性がいて「一般的には、右の方が美人だと言われるだろうな」と思っても、なぜか「左の方に惹かれてしまう」とか、性格的な面でも「一般的には、右の女性の方が、魅力的な人格の持ち主だと考えられるはずで、明らかに左の方が、性格的難点は多い」と理解していても、なぜか「その難点」にこそ惹かれてしまうことだって、往々にしてある。

これを「小説や映画などの作品」に例えると、あえて「暗い作品」や「難解な作品」を選んでしまうというのは、結局のところ、その選択が「正しい」からではなく、その選択対象に「魅力を感じてしまう」からに他ならない。結局は、それが「趣味」だとしか言いようのないものなのである。

だから、シゲカヨが「恋愛中毒」であり、冷静な判断のできない、反省のできない「恋愛中毒者」だとしても、それは、彼女がそういうふうに生まれてしまった結果であって、それを責めることなどできないのではないだろうか。

例えば、腕や脚がない状態で生まれてきた人が、自分で移動できないからといって、それを責めることができるだろうか。「自分のことくらい、自分でしろよ」と要求するのは、適切なことだろうか?

つまり、シゲカヨは、見かけ上は「五体満足」で、どこにも問題は無いように見えるけれど、では「頭の中の問題」は、考慮されなくても良いのだろうか?
例えば「知的障害」などであると、多くの人は、その「持って生まれたハンデ」に配慮するはずだが、しかし、それならば、シゲカヨの「過剰な恋愛体質」というのも、ある意味では「持って生まれたハンデ」だとは言えないだろうか? それは腕や脚が無いのと同じように、「恋愛についての、心のストッパーが不完全」という「先天的ハンデ」だとは言えないのだろうか?

そして、このように考えていけば、私たちは誰しも、多かれ少なかれ、自分の中に「シゲカヨ」と大差のない「問題」を抱えている。「自制の利かない、ある種の欲望の対象」を抱えていると、そう言えるのではないだろうか。

無論、それでも、生活が完全に破綻しない程度には、自身をコントロールするだけの「能力」が、あるのか無いのかは、大きな違いであろう。
「自制能力の欠如」によって、その人の社会生活や生存そのものが脅かされるというのは、やはり、本人にとっても、社会にとっても、問題であろうし、不幸のタネでもあろう。

しかし、この「最低限の自制能力」の有無というのも、結局は、ほとんど「持って生まれた能力」という部分が大きいのではないか。

だとするば、本作『ハッピー・マニア』が、ハッピーエンドにはならず、ある種の「ホラー的な恐ろしさ」さえたたえた
ものになってしまったのは、私たちの誰もが多かれ少なかれ抱えている「自制の利かない怪物」を描いていたからではないだろうか。

不幸になるのが目に見えている方を、わざわざ選んでしまうというのは、それに「魅力」を感じているからに他ならず、その「魅力」というのは、「脳内麻薬」に由来するものであって、「理性による損得打算」によって生み出されるものではないのだ。

私たちは、日頃は、どこかで「私は私自身をコントロールしている」し「コントロールできる」と考えている。だが、果たしてそうだろうか?

人は、ある局面において「見知らぬ自分」に直面し、その自分は、嬉々として地獄へと突っ走ってしまう。一一そんな、恐るべき事態は、完全に「あり得ないこと」だと言えるだろうか?

私が『ハッピー・マニア』のラストに感じた「恐ろしさ」とは、こうしたものなのだ。

人はしばしば「客観的な幸福(状態)」では「満足」できず、逆に「不幸」の中にこそ「幸福(ハッピー)」を見出してしまうのである。

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「Wikipedia」によると、安野モヨコというペンネームの由来は、

夢野久作ドグラ・マグラ』の登場人物「呉モヨ子」、および作家・安野光雅の名前から取って名付けられた。』

のだそうである。

だとすれば、安野モヨコが、シゲカヨの中に『ドグラ・マグラ』的な、あるいは「呉モヨ子」的な「狂気」を見ていたとしても、なんの不思議もないはずなのだ。

『「……お兄さま……お兄さまお兄さまお兄さま。なぜ……なぜ返事をして下さらないのですか。あたしです、あたしです、あたしですあたしです。お兄さまはお忘れになったのですか。妾あたしですよ。あたしですよ。お兄様の許嫁いいなずけだった……妾……妾をお忘れになったのですか。……妾はお兄様と御一緒になる前の晩に……結婚式を挙げる前の晩の真夜中に、お兄様のお手にかかって死んでしまったのです。……それがチャント生き返って……お墓の中から生き返ってここに居るのですよ。幽霊でも何でもありませんよ……
(中略)
「……お兄さまお兄さまお兄さま。何故なぜ、御返事をなさらないのですか。妾がこんなに苦しんでいるのに……タッタ一言……タッタ一言……御返事を……」
「……………………」
「……タッタ一言……タッタ一言……御返事をして下されば……いいのです。……そうすればこの病院のお医者様に、妾がキチガイでない事が……わかるのです。そうして……お兄様も妾の声が、おわかりになるようになった事が、院長さんにわかって……御一緒に退院出来るのに………お兄様お兄様お兄様お兄さま……何故……御返事をして下さらないのですか……」』
(夢野久作『ドグラ・マグラ』より)

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(2023年5月25日)

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