書評:小谷真理、ヤマザキマリ、中条省平、夢枕獏『別冊NHK100分de名著 時をつむぐ旅人 萩尾望都』(NHK出版)
4人の論者が、程度の差こそあれ「異口同音」に語っているのは、「自立」の問題である。
萩尾望都という作家が、「親の愛」を求めながらも、最後は「ひとり行く」覚悟を選んだ人だという事実を、代表作の中からそれぞれに読み取りつつ「だから読者も、萩尾が身を切り血を滴らせながら描いた作品から、その切実な生に関わる重い問いを、それぞれに引く受けてほしい」と、4人(のうち、少なくとも3人)はそう語っているのだ。
以上の3人によって語られているのは「萩尾望都がそうであるように、『ここではない、どこかへ』(P2)と赴くのは、悪くないことだ。だがそれは、多数派たりうるユートピアとしての「安住の地」を目指すことではなく、むしろ孤独な終わりなき旅路であることを覚悟しなければならない」ということである。
見てのとおり、小谷の議論も、他の3人と同様に『ここではない、どこかへ』赴いていいんだよ、ここがすべてではないんだ、ということを語っていると言えよう。
しかしながら、そこが「必ずしも楽園ではない」ということまでは、語っていない。そこへと旅立つためには、むしろ「孤独」を引き受ける勇気が必要なのだ、ということまでは、語ってはいないのである。一一なぜだろうか?
それは、小谷真理の視点が「女性の解放」に限定されているからで、男女をひっくるめた「人間」全体を問題とはしていない、「限定的な助言」に止まっているからである。
小谷のここでの「助言」は、「ひたすら抑圧する性」だと見なされているかのような男性には、あまり届かないものとなってしまっているのである。
たしかに、女性は今もなお男性から抑圧されているだろう。その不当な抑圧を受け入れる必要などさらさらなく、さっさとここから出て行けばいいのである。
一一だが、出て行くと言っても、それはスタスタと歩いていくようなわけにはいかず、自分の力でその行き先を開拓していかなければならない場合の方が、むしろ多いのではないか。
「かまわないよ、出ていっちゃいなさい」という「助言」も必要なものだが、実際のところ、出てゆく先の目星もないままに飛び出したら、野垂れ死ぬかもしれないというのが、特別な才能を持たない人間の、男女を問わない現実なのではないのか。
だからこそ、他の3人は「孤独は自由への代償」だと言い、「多数派に安住することは、無自覚に少数派を抑圧すること」にもなるから、自ら自由を求めて「究極の少数派たる、ひとり」になる覚悟が必要だ、とも語っているのではないだろうか。
例えば、「少女マンガなどの興味のない(あるいは萩尾望都に興味のない)世間」に向かって「萩尾望都讃美」を語る行為は、「ひとり」であることを引き受ける態度だろう。
いくら声を枯らしても、誰も振り向いてくれないどころか「そんなもの」と鼻で嗤われて、それでも「萩尾望都讃美」を語る行為は、真の意味で『ここではない、どこかへ』と旅立つ行為だと言えるだろう。
一方「萩尾望都ファンに向かって、萩尾望都讃美を語る」場合の、彼女あるいは彼の行いは、どうだろうか?
彼女あるいは彼は『ここではない、どこかへ』赴いているのだろうか。それとも『みんながつながり合って、ひとつになって生きようというもうひとつの欲望』に身を任せた「バルバラ的一体化」を目指すものなのだろうか?
答は明白だろう。
「萩尾望都語りの萩尾望都知らず」という言葉は存在しないかもしれないが、そういう人なら「大勢」いるはずである。
「萩尾先生、バンザイ!」と言っていれば「仲間」であり体制翼賛した「群の一員」と遇するが、「彼も人間だ=彼女も人間だ」と言えば、途端に「敵視」し「排除」しようとするような人たちは、「萩尾望都語りの萩尾望都知らず」なのではないだろうか。
萩尾望都の作品を読むということは、萩尾望都という「偶像にしがみつく」ことではない。その権威に依存することではない。
「孤独を引き受けよ」という言葉は、そのまま萩尾望都から「自立」を意味するのではないだろうか。
「ベタ誉め」競争をすることだけが「ファンの証明」ではない、のではないだろうか。
「いま」こそ必要なものは、そうした意味での「批評」なのではないだろうか。
初出:2021年5月30日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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