内山雄人監督 『妖怪の孫』 : 妖怪は、 殺されても死なない。 必要なのは 「日本の除霊」。
映画評:内山雄人監督『妖怪の孫』
簡単に言うと「首相・安倍晋三の功罪を総括する」という内容の、ドキュメンタリー映画だ。
監督の内山雄人は、映画監督としては、前首相・菅義偉を扱ったドキュメンタリー映画『パンケーキを毒見する』に続く2作目ということになるが、テレビディレクターとしての長い実績がある人なので、非常に手がたく観やすくまとめており、「安倍晋三を復習する」のには、もってこいの作品になっている。
安倍晋三関係の活字情報にまで触れてきた者には、特に目新しい話は無いものの、「耳タコ」になるほど繰り返されてきたがゆえに、かえって今となっては「それもあったな。これもあったな」と、いまだに決着のついていない「安倍晋三の負の遺産」のあれこれを再認識させられ、「安倍晋三問題の今後」を考えるための、頭の整理になり、その意味で大変ありがたい映画だった。
この「紹介文」と同様、映画の予告編もそうなのだが、総論的な紹介に終始して、映画の具体的な中身や面白い部分への言及を控えているために、この作品の良さを伝えられていないうらみがある。
前記のとおり、私が思うに、本作の魅力とは「それもあった。これもあった」と、うんざりするほどあったがために、ほとんど忘れかけていた「いまだ解決されざる、安倍晋三の負の遺産」のあれこれを、再認識させてくれる点にある。
そしてそうした点では、「映画.com」に寄せられていた、「北枕寝二」氏の次のレビューが、本作の内容を、非常によく伝えているので、こちらをこそ紹介しておきたい。
北枕氏の指摘どおり、政治家になる前の安倍晋三や、プライベートな発言などを知ると、「こんなのが日本の首相だったのかと、あらためてウンザリさせられる」その一方、
というのも、まったく同感。
しかし、北枕氏が、下手をすると「陰謀論」的だと取られかねない、組織的な「背後関係」を考えるのに対し、私は「そんな悪知恵をつけるような人なら、いくらでもいるだろう」と考える。
つまり、「組織」ではなく、安倍晋三を利用して、自分も利得を得ようという「頭は良いが、汚い人間」などというのは、政治界隈にはウヨウヨいるのだから、安倍晋三のように、「自分を押し通す」というよりも、「お友達」の意見には耳を傾ける人というのは、そういう手合いには、取り入りやすくて、とてもありがたい存在だったのではなかったか。
そして、そんな「頭は良いが、汚い人間」が案出した「あれこれの手管」とは、『高度かつ巧妙な悪知恵』と言うよりも、単に「何でもありの(アンフェアな)ゴリ押し」でしかないと、私は考えるのだ。
普通に「常識」や「良識」がある、恥を知る人間だと、その「常識」や「良識」が枷となるために思いも寄らないような「身も蓋もないこと」を、サイコパス掛かって「頭は良いが、汚い人間」というのは、平気で思いつくし、それを臆面もなく口にできてしまう。
例えば、「内閣法制局の、歴史的な見解を変えるには、どうすれば良いか?」という問題があった時に、まともな人間なら、そうした「従来の見解」を否定する「ロジック」をひねり出しての「歴史的見解の修正変更」を目指すだろう。
ところが、そうした「常識的発想」に縛られないサイコパス的な人なら、あっさりと「内閣法制局長官を、こっちの人間にすげ替えれば良いだけ」だと思いつく。
「いやいや、それはいくらなんでも、露骨すぎるでしょう」と、「常識」や「良識」のある人間なら言うかもしれないが、サイコパス的な人なら「意図が露骨でも何でも、別にかまわないでしょう。必要なのは結果を出すことだし、国民大衆に対し、事後的に黒を白だと言いくるめることなんて、簡単なことじゃないですか」と言うのではないだろうか。一一いやまったく、おっしゃる通り、なのだ。
つまり、「ネオリベラリズム(新自由主義)」という「やった者勝ち(勝てば官軍)」という思想が、世界的に広まって以降は、「そこまで露骨にやるのは、いくら何でも」という「良識(的な自制心)」が、多くの場所で失効してしまっているのである。それは「政治」の場だけではなく、世間一般においてもだ。
安倍晋三の「嘘もつき通せば、本当になる」「やっているかどうかではなく、やっている感の方が大事」とかいった発想も、結局のところは、「ネオリベラリズム(新自由主義)」的な「身も蓋もなさ」であると考えれば、わかりやすいのではないか。
昔の悪党には、悪党なりの「美学」があった。
例えば「素人衆には手を出さない」「飛び道具は使わない」「ヤクをしのぎにはしない」といったものだが、そうした「美学」は、恥も外聞もプライドもない「チンピラ」の、「何でもあり」の前に敗れてしまったというのが、今の現実である。
だから、政治の世界が、こうなってしまったのも、同じ「流れ」の中での現象と見て良いだろう。
要は、「重厚だが不器用な美学」が「軽薄な何でもあり」の前に敗れ去った後の世界に、私たちは生きているということだ。
こうした「世界的な(悪しき)変化」というのは、否定しがたい事実だと、私は思う。
しかし、一見、普遍的で不変的なものに見えていた「常識」や「良識」といったものが、あっさりと「変更可能なもの」であったのと同じように、今の「流れ」も、決して絶対不変のものではなく、「変えられるもの」であるはずだ。
だから、私たちは、私たちの「常識」や「良識」、あるいは「美学」において、「安倍晋三的なもの」を測って「それはいくら何でも」と呆れているだけであってはならない。
そうではなく、彼らの「何でもあり」という「サイコパス的な感性」をよく理解した上で、慎重かつ詳細に彼らへの対抗策を考えなければならない。彼らには「さすがにそんなことは、恥ずかしくてできない」といった「ルールは無い」からだ。
たしかに、「安倍晋三的なもの」について、それでも「同じ人間なのだから」と考えることも必要なのだが、「同じ人間」の中にも、ピンからキリまであるという事実の方も直視して、そこへ配慮しなくてはならないという現実もまた、否定してはならない。
私たちもまた、プライドにとらわれた結果として「あんな人たち」に負ける、というわけにはいかないのだ。
この映画を観て、「安倍晋三的なもの」の「薄っぺらさ」を再確認してほしい。
そして、その上で、その「薄っぺらさ」とは、見かけほど「ヤワなもの」ではなく、「薄っぺらい(無節操だ)からこそ、如何様にでもなれる強かさを持っている」という事実を、深く銘記すべきなのではないだろうか。
(2023年3月30日)
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