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高橋繁行『土葬の村』 : 葬送習俗における〈意味と無意味化〉

書評:高橋繁行『土葬の村』(講談社現代新書)

帯に『滅びゆく弔いの風習』『これは恐らく、現存する最後の土葬の村の記録である。』とあったので、すっかり、この「最後の土葬」の一例を、深掘りした民俗学的レポートだと思い込んで購入したのだが、そうではなかった。

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本書は「土葬」だけではなく、「火葬」や「風葬」、あるいは民俗学資料からの紹介として「土葬、野辺送りの怪談・奇譚」などまで、国内のさまざまな葬送儀礼を広く紹介したものとなっている。

また、著者は民俗学者や、民族的習俗の採集をおこなう在野の郷土史家といった人ではなく、『葬式、笑い、科学、人物を主要なテーマに取材・執筆』しているルポライターであるせいか、習俗の「分析」といった側面はほとんどなく、民俗学者などの採取報告などとは、多少趣きを異にしている。

端的に言って、もう少し突っ込んだ分析的な側面が欲しかったと、個人的にはやや期待外れでなくもなかったが、それはこちらの早とちりのせいでもあるし、おおむね知っている話が多かったとは言え、葬送儀礼の総覧的復習という意味では勉強になった。

「おわりに」で書いているとおり、著者が「葬送儀礼」に関心を持ったのは、二十年前、肝臓がん末期であった友人に、型通りのものとは少し違った形式での葬儀を依頼されたことで『友人が葬儀を主催して故人を弔ってよいものだろうか。』と不安を覚え、調べ始めたのがきっかけだそうである。だからこそ、そこには、まず先に実践的な問題があり、その実践のための「葬送の意味」理解が必要であったという経緯が、著者のスタンスに大きく影響しているようだ。
つまり、民俗学者のように、「葬送儀礼」そのものではなく、その奥にあるものへの知的興味がまずあって、その視点から「葬送儀礼」をどこまでも腑分けしていく、というのではなく、基本的には「歴史的に生成された葬送儀礼の意味」を受け入れる、というスタンスなのだ。その範囲内で、いわば「友人葬」の是非を問うことが当面の目的だったし、その後は、その発展形式なのである。

一方、私の場合は、もともと「宗教」批判のために「宗教」を独学研究しているような人間なので、「葬送儀礼」というのは、基本的には「宗教的な意識の通俗形式」だと考えている。
もちろん、それで救われなければならない人が大勢いるからこその「救済的フィクション」ではあるのだが、だからこそ、その「歴史」や「意味」を深掘りしていく、民俗学的な視点にこそ興味を持つのだ。

それにしても、本書で紹介されているさまざまな儀礼を通覧するとき、その「意味づけ」の違いによる「形式的な違い」は、「葬送儀礼」にはもともと「正解(真理)」など無い、ということを思い知らせてくれる。

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それぞれの儀礼に関わる人たちは、それぞれに自分たちの「儀礼の形式」が「正しい」ものであり、だからこそ「安心」できると考えているのだが、そうした人たちの視野は、自分の周囲に限定されており、たまさか、時間的・空間的に離れた場所でなされる「異なる儀礼」を目にしたとしても、基本的には「奇習」を見るくらいの興味しかなく、その「違いの意味」を問うことは、絶えてない。
なぜ「どちらの葬送儀礼が、正しいのだろう」とか「この違いの意味は、何なんだろう」と考えないのかと言えば、それは多分、葬送儀礼というものが、基本的には「気散じ」のためのものであり、だからこそ、そこに「拘泥るべきではない」と、なかば忌避しているからではないだろうか。

本書著者は「科学」も主要なテーマの一つだそうだから、科学の視点からの「葬送儀礼」への突っこんだ見解を聞かせて欲しかった。だが、著者の場合は、「葬送儀礼」と「科学」が同一地平上にぶつかり合うような、いわば「西欧的な価値観」とは、縁がなかったのかもしれない。つまり「それとこれとは別」で済ませてしまえる、日本的な価値観をベースに持っていたのかもしれない。

例えば、一神教的に「例外を認めない」西欧的な「科学」の目からすれば、「葬送儀礼」とは、次のごときものとして説明できるだろう。

(1)生物には、生存本能がある。(生存希求という方向性を持たない生物は淘汰される)
(2)生存本能は、死を忌避する。
(3)当然、人間にも、死を忌避する本能があって、それを「悪」や「苦」と観念し、「死にたくない」と考える。
(4)そこで「死にたくない」という感情への意味づけがなされる。「なぜ死にたくないのか」「死んだらどうなるか」
(5)宗教的感情が形式化されて「宗教的フィクション」が形成される。
(6)「宗教的フィクション」に応ずるかたちで「死の恐怖」を無化する「葬送儀礼」が生まれる。

このような科学的かつ合理的な「葬送儀礼の形成論」は、現代人なら、おおむね誰でも理解できるし、さほど反発を感じることもないだろう。

にも関わらず、私たちは近親者が「死んだ」際には、慣習的な「葬送儀礼」を行うことで、その「変事」が与える「非日常的な意味喪失」を無化しようとする。
「私たちのこの一生は、あるいは生きているということは、じつは無意味なのではないか。すべては夢のような、うたかたの一瞬に過ぎないのではないか」といった「哲学的な認識」に晒され「実存的不安」に直面した時、私たちは、そうした「呪い」を、いわば「お祓い」するためのものとして、「葬送儀礼」を創作発明したのではないだろうか。

こんなことを考える人は、それほど多くはないだろう。
しかし、私は「宗教」というものが、どうしても信じられないし、そうであるならば「葬送儀礼」というものも、所詮は「お約束のお芝居」に近いものだとしか思えない。

三十半ば父を失った時、私はすでに「葬礼の欺瞞性」に腹を立てており、喪主である母の代わりに葬儀で挨拶をした際「本当は、葬式なんかしたくなかった」と言い放った。
この時は、その理由をうまく説明することはできなかったと思うが、いま考えれば、それはきっと「こんなこと(葬儀をすることや、その中身や豪華さや種類)で、父が天国へ行ったり救われたりするほど、父の人生は軽くない」ということだったのだと思う。私は「葬礼」を、故人をダシにした、遺された者の「気散じ」の形式として、正当化する気にはならなかったのだ。

この少々過激なアンチテーゼが、「葬送儀礼」に興味のある人の参考になり、刺激になればと思う。

初出:2021年3月9日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年3月18日「アレクセイの花園」

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