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瀬名秀明 『ポロック生命体』 : センス・オブ・ワンダーの〈大嘘〉

Z書評:瀬名秀明『ポロック生命体』(新潮社)

『SFの90パーセントはクズである。──ただし、あらゆるものの90パーセントはクズである』

「スタージョンの法則」として、SFファンにはあまりにも有名な、シオドア・スタージョンの言葉である。

しかし、その作品が「傑作」か「クズ(駄作)」かを決めるのは、読者であって作品ではない、というのが、世の常だ。つまり、どんな傑作も、「90パーセントを占める、クズ読者」にとっては、しばしば「理解不能」であり、その意味で「駄作(クズ)」だと評価されてしまう。これが、私たちの「現実」なのだ。

本書には、「負ける」「144C」「きみに読む物語」「ポロック生命体」の4短編が収められているが、どの作品も、AI(人工知能)が人間を超えていった先の世界をひとめ見たいと願う人々の、孤独な姿を描いている。

『 私が見たかったのは、風景だった、と思う。雑音が消えた後にクリアに見える風景だ。』
 (「負ける」P30)

『自分の身に纏わりついているかりそめの〝人間らしさ〟を、何とか丁寧にそぎ落としたい。いったん自分は機械になるのだ。』
 (前同 P35)

『それでもまだとうてい勝つことはできない。強さの意味が少しずつ身に沁みてくる。しかしその沁み入ってゆく先にある自分の芯に、自分の本当の人間らしさがあると思いたかった。』
 (前同 P36)

『「あなたはまだ負けたことがないの」
 久保田は相手を見つめ返した。彼女は深い瞳でいった。
「でも、それは、人類も同じ」』
 (前同 P55)

人類の多くは、いまだに自分が「主人」でなければならない。「勝者」でなければならないのだ。だが、AIは、そんな人類の立場を脅かしている。だから、人々は、AIが人類の能力を超えていくことに反発するのであろう。
自分の負けを認めた上で、それでも「その先の風景を見たい」とは、普通の人は思わないものだ。「90パーセントを占める、クズ読者」が期待している「風景」とは、彼の貧弱な能力を否定しない範囲での、きわめて手近な「風景」に過ぎない。

『あなたも知っておくといいわ、世のなかにはね、二種類の読者がいるの。自分が知っていることにしか関心を示さない読者と、自分の知らないことを読みたいと願う読者。』
 (「144C」P84)

だから、SFファンがSF作品に求めているものが「センス・オブ・ワンダー」だなどというのは、大嘘である。
SFファンの「90パーセントを占める、クズ読者」が求めているものとは、『自分が知っている』ものの「新装版」に過ぎない。彼らは、本当に新しいものなど求めてはいない。つまり彼らは『自分の知らないことを読みたいと願う読者=センス・オブ・ワンダーを求める読者』などではない、のである。

『 後に、私は一度だけ多岐川に連れられてSFの大会一一コンベンションに足を運んだことがある。パネルディスカッションをいくつか聴いて私は知った。SFジャンルを愛する人々の一部には次のような信念がある。すなわちSFにおいては世界が変わらなければならない。ホラーは世界を変えようとする魔力を阻止する物語だが、SFは世界がなぜ、どのように変わり、そしてなにが新たに生まれたかを描く。それがなければ〝SFではない〟のだと。
 だが本当に世界が変わってしまったとき、どれだけの人がその事実に耐えられるだろう。その証拠に特定ジャンルをとりわけ愛する人は、自分たちのコミュニティが変化しないことを願うからだ。変わろうとする世界が他人事である限り、SFはいつまでも変わらずにいられる。』
 (「きみに読む物語」P102〜103)

当然のことだ。
SFファンの90パーセントを占める「クズ読者」は無論のこと、『SFにおいては世界が変わらなければならない。ホラーは世界を変えようとする魔力を阻止する物語だが、SFは世界がなぜ、どのように変わり、そしてなにが新たに生まれたかを描く。それがなければ〝SFではない〟のだと』主張する「意識高い系」の『SFジャンルを愛する人々の一部』もまた、その『90パーセントはクズである』からである。
これは、理の当然であり、SFジャンルが「例外」であるなどという、眠たい話ではない。

このような私の語り口は、あまりにも「非人間的」に、配慮を欠いたものだろうか。
まるで「負ける」に描かれた、情け容赦なく、つまり「非情かつ合理的」に対局者を追い詰めていく、囲碁AIのようであろうか。

『 一一あなたは、物語とは何だと思う? 私たちはね、いま一瞬一瞬、物語をつくっているの。ねえ、私はまるで機械のようでしょう。機械のような人間こそ、人間らしさに自覚的なの。わかってほしいとか共感してほしいなんて私たちはいわない。勝手に口をついて出そうな言葉を吞んで説明を続ける。』
 (「144C」P92〜93)

例えば、私は「キリスト教」を素人研究している「無神論者」であり、私のキリスト教批判の辛辣さは、尋常一様なものではないと自負している。それは、私のいくつかのキリスト教書への批判的レビューを読んでもらえば、ご理解いただけよう。
キリスト教徒にとっては、まるで「悪魔(悪鬼羅刹)」のごとき「非情さ」でなされる、私のキリスト教批判が、しかし、「信仰」に「自己慰撫としての自己欺瞞」を持ち込む人への、私の「怒り」に発したものであるならば、彼ら「偽信仰者」などより、私のような「無神論者」の方が、よほど「神」を愛している「人間」だとも言えるだろう。

同様に「AIを怖れ憎む人」「新しいものを怖れ憎む人」「事実に直面することを怖れ憎む人」「SFを愛しているのではなく、SFを愛することのできる自分を愛し誇りたいがために、自分の理解できないSFを憎み怖れて排除しようとする人」一一これらの「畜群」は、言うまでもなく、すべて「クズ」であり、「自分自身もまた、そんなクズであることを認めようとしない人」もまた、頭の悪い「クズ」でしかない。
自身を、どの角度から見ても「クズの要素がない人」と信じられる人間、あらゆる角度から見ても「90パーセントに属さない人間=つねに10パーセントの側に属している人間」だと能天気に信じられるような人間は、どう考えたって馬鹿である。つまり「クズ」なのだ。
言い変えれば、多かれ少なかれ、人は誰しも「クズ」なのである。だから、いずれAIに負けるのも、理の当然なのだ。

だが、そう自覚できるならば、せめて「クズ」を超え出た先の「風景」を見たいとは、思わないのだろうか。
もちろん、自覚のない「クズ」はそんなことなど考えられず、無駄な抵抗に汲々とするだけだろう。だが、そんな醜態ばかりを見て死んでいく人生は、あまりにも絶望的で悲しいではないか。

だから、私は「無神論者」として「機械」のようにふるまうのだ。

『 彼のスピーチはSF社会のものではなかった。彼のふるまいは共有されるものではなかった。(※ SFコンベンションの)ホールの外にあるべきものを、彼は内部へ持ち込んでいた。』
 (「きみに読む物語」P126)

私の声は、「キリスト教信者の社会」に届き難いものであった。しかし、その声の届き難さも、「SF社会」へのそれに比べれば、ずいぶんマシなのだろう。
まじめなキリスト教徒は、その信仰にすべてを賭けていたからこそ、真摯な批判には耳を傾けることもした。そうしなければ、その批判を乗り越えることはできないからだ。
しかし、所詮は「ささやかな承認欲求や自己顕示欲を支えるものでしかないSF趣味」の持ち主たちが支える「SF社会」の場合、そうした批判に真摯に耳を傾ける者など、ほとんどいはしない。
そもそも、外の世界の人間は、本気で「SF社会=SF村社会」の問題点に興味を持つことなどないのだから、それを真剣に批判することもないし、それを良いことに「SF社会」の方も、ときどき身内から出る「空気が読めない変わり者」を「村八分」に処しながら、太平の惰眠を貪りつづけるのである。

だから、そこには「センス・オブ・ワンダー」など無い。「泰平の眠りを覚ます上喜撰」など、求められはしない。
そこで求められているのは、手垢のついた、それでいて今風の「マスターベーションのオカズ」でしかないのである。

『あのSFコンベンションで、たくさんのファンを目の当たりにしながら、私はずっと孤独を感じていた。』
 (「きみに読む物語」P129)

瀬名秀明は、憧れと諦めの向こう側の「風景」を見ようとした作家である。
そのうち滅びる人類のために、それでもその可能性を信じようとした、愚かな、しかし、作家らしい作家だと言えるのではないだろうか。

(2021年7月1日)

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