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〈ルッキズム〉と美醜判断の根源性

書評:『現代思想 2021年11月号[特集]ルッキズムを考える』(青土社)

「ルッキズム」とは、要は「見た目(外見)差別」のことだ。
日本人の記憶に新しいところでは、「東京オリンピック2020」開閉幕式で「タレントの渡辺直美をブタに変身させるような演出案が検討されていた」と報じられ、当該演出家が辞任するという騒動があった。この場合は、ルッキズムの一種である「肥満者差別」ということになる。

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言うまでもないことだが、本人の責めに帰することにできない身体的特徴において、人を差別することはできない。つまり「人を外見で差別してはいけない」ということに一一なりそうなのだが、ことはそれほど簡単ではない。

例えば、ここにスタイルの良い人と肥満の人が並んでいたとして、スタイルの良い人に「あなたはスタイルが良いねえ」と言い、肥満の人には何も言わなかった場合、これは「差別」なのか、それとも「差別」には当たらないのか。

少なくとも、私がその肥満の人だったら(事実、私は肥満体だ)、あまり良い気がしないというのは間違いない。「それを言うんなら、俺のいないところで言えよ」くらいのことは考えるだろう。口には出さないとしても、である。

しかし、人前でおおっぴらに言えないようなことを陰で言うというのは、人品(品位)の問題であったり、倫理的な問題であったりする、ということにもなりそうだから、やはりそこには「ルッキズム」の問題があるようにも思える。

しかしまた、「ある特定の人を、不愉快にする表現だから」と言って、その言葉を「公私ともに使ってはいけない非倫理的な表現」だとするのは、行き過ぎの感を否めない。いわゆる「言葉狩り」にもなろうし、何よりも「表現の自由」を「著しく制限する」ことにもなろう。

つまり、「ある特定の人を、不愉快にする表現」というのは、それを言われた当人には間違いなく「不愉快」ではあろうが、だからと言って「不愉快なものは、すべて禁止」すれば良いのだろうか。無論、そうではない。

例えば、「非難」「批判」「批評」といった行為は、社会の健全性を保つには是非とも必要なものなのだが、「非難」「批判」「批評」をされた(差し向けられた)当人は、確実に「不愉快」であろう。だが、だからと言って、「非難」「批判」「批評」を禁止するわけにはいかない。
そもそも「非難」「批判」「批評」する人は、「非難」「批判」「批評」される人が「不愉快にさせられて当然」なことをやっているのだから、その「問題点=他者を不愉快にさせている事実」を指摘認識させられ、その結果として「不愉快」にさせられるのは「当然(自業自得)だ」と考えて、「非難」「批判」「批評」をしているのである。
したがってここで問題になるのは、「非難」「批判」「批評」をするための「正当な理由」の有無ということになるのだが、これが難しい。「価値判断」というものは、絶対的なものではないからである。

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(宮武外骨による「新聞批判」の意図を込めた雑誌付録)

実際、ひと昔前は「肥満は悪」に近い認識があった。要は「健康に良くない」「見苦しい=他人の目に迷惑=自分も恥ずかしい」「一般に動きが鈍く、仕事にも差し障る=人に迷惑をかける」「自己管理ができていない=だらしない・無責任」といったことがあると考えられたからだ。

しかし「黒人差別反対運動」において「肌の色による差別」に疑義が呈せられ、その意味で「見かけのよる差別」は「偏見=社会的に構成された、偏った価値観」によるものでしかなく「黒い肌が醜い=白い肌が美しい」とする価値観を「客観的に正当化し得る論拠はない」とされ、世間の多くもこれに納得したから、「肌の色による差別」は「倫理的に許されないもの」だと認識されるようになった。
だとすれば、当然「太っていて、何が悪い」ということにもなったわけである。

この意見に対して「いや、肌の色は、持って生まれたもので、当人の罪ではないが、肥満は当人のせいだろう」と反論する人もあるだろう。しかし、この反論に再反論するのは、きわめて簡単である。
例えば「私の家系は、明らかに肥満体質である。したがって、私の肥満体質は遺伝的なものであり、私の責任とは言えない」、あるいは「私の置かれた社会環境が、私に肥満に陥る生活を強いたのであり、その意味で私個人の責任とは言えない」等といったことになるからだ。

言うまでもなく「細い方が美しい」というのは、社会的に構成された「ひとつの価値観」でしかない。したがって、太っているのは「見苦しい=他人の目に迷惑=自分も恥ずかしい」というのは、誤った認識だということになる。
そして「一般に動きが鈍く、仕事にも差し障る」「自己管理ができていない=だらしない・無責任」といった点も、ある種の「遺伝的な障害者に対する差別」や「社会における階層差別」といったことになるであろう。
一一このようにして、「肥満者差別」は正当化し得ないものになったのだ。

だが、例えば「遺伝的な障害」は、当人の責任ではないから、当人に責めを負わせることはできず、不利益を負わせることもできないとすると、例えば「遺伝的な問題性格者」はどうだろか?

「親ゆずりの無鉄砲」(夏目漱石『坊ちゃん』)だとか「親ゆずりの短気」「親ゆずりの鈍感」「親ゆずりの共感性欠如」とかいったことだ。
これらは、犯罪につながりやすい傾向性を持っており、現に犯罪を結果することもあるだろう。だが、その場合「親ゆずり」の「遺伝的性格」だから「当人の責は問えない」ということには、ならないだろう。事実として、そんな「判決」など聞いたことがなく、「生まれ持った性格」のコントロールについては、当人に責めが負わされているのである(生まれた後の「生育環境」は考慮されるとしても)。

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では、「生まれ持った外見」なら、どうなのか?
「生まれ持った性格」は本人の責任だが、「生まれ持った外見」は本人の責任ではない、ということで「筋が通る」のだろうか。これで、誰もが納得するのだろうか?
無論、これでは論理的一貫性を欠いていて、納得しろというのは無理な話である。

つまり、「差別」の問題というのは、「抽象原理的な正しさ」と「現実問題としての対処必要性」との間に「ギャップ」が存在していて、私たちは、その「バランス」を取りながら、その場その場をしのいでいるに過ぎないのである。それが現実なのだ。だから、「どこにも問題が起こらない、完全に正しい原則」というのは、まず間違いなく、存在しないと考えていいだろう。
しかしまた、そんなものは「存在しない」としても、「存在しないから、どうでもいい」ということにはならず、常に「近似値的な正しさ」を求めながら、私たちは「現実問題」に対処していくしかないのである。

そして、これは「ルッキズム」についても同じなのだ。
実際、「ルッキズム」と一口で言っても、その範囲はいくらでも拡大していく。

『 現代社会においては、広い意味での「見た目に関する差別(appearance discrimination)」が「ルッキズム」と総称されている。ルッキズムの中には、美醜の社会的通念にもとづく差別、肌の色・身長・体格などの身体的特徴についての差別、当該社会において一般的ではない服装に対する差別など、さまざまなかたちの差別が含まれる。年齢や障害の有無も、それらが外見から判断されがちである以上はルッキズムと無縁ではない。』
 (P226、鈴木崇志「現れる他者との向き合い方」より。出典註記略)

「見た目」というのは、単なる「物理的差異」の問題ではない。「物理的差異に対する価値づけ」の問題であるから難しい。
要は「頭の中」の問題であり、「思考」あるいは「感覚」の問題であるからこそ、「それは間違いだ」と評価される以前に、常にすでにそれは「為されているもの」なので、その「為されたもの」を無かったことにはできないし、たいがいは「為さないでいる」「為さないようにする」というようなこと(理性によるコントロール)は、きわめて困難なのである。

しかし、だからと言って「仕方がない」では済まされない。

同様に、本誌の特集記事を読んで「スッキリした解答が与えられない」と注文をつけているだけでは、ダメなのだ。その読者が、ダメだということである。

本誌今号の特集タイトルが「ルッキズム」ではなく「ルッキズムを考える」となっているのは、今のところ「ルッキズム」の(丸ごとの)解決など、とうてい不可能だと認識されているからで、だから「考えなければならない」ということなのだ。
そして、その難問について「考えるべき主体」とは、特集原稿執筆者たちだけではなく、今号を読んだ読者を含む、すべての人なのである。

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さて、あなたは「ルッキズム」を定義し、その解決案を提示できるだろうか?

無論、「不可能だ」とか「出来っこない。考えるだけ無駄だ」などというのは、解答になっていないし、社会人としての責めを果たしていない。一一そういうことになるのである。

(2022年2月12日)

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