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北村紗衣読者には薦める勿れ : 施川ユウキ 『バーナード嬢曰く。』 第7巻

書評:施川ユウキバーナード嬢曰く。第7巻(一迅社・REXコミックス)

本巻の表紙を見て、ちょっとイラッと来た。主人公の「バーナード嬢」こと町田さわ子が、ちょっと照れたような、それでも笑顔全開で『最高の友達が 薦める本だから 最高の1冊です!』と言っている、本巻収録回から採られたカットなのだが、このセリフこの表情は、町田その子らしくなくて「読者に媚びている」と、私にはそう感じられたのだ。

デビュー作『サナギさん』以来(※ 正しくは『がんばれ酢めし疑獄!!』)の施川ユウキファンとして言わせてもらうと、施川の美点とは、その「偽善を嫌悪する潔癖症」であり、その一方、そうした「狷介さ(偏狭さ)」を自覚して、それを「温かく見守ろう」とする視点を併せ持つところにあると思う。
だがそうした「狷介と寛容のせめぎ合い」が、この巻では後退していて、いかにも若い読書好きを狙った「無難に感じの良い作品」になってしまっている印象が強い。
まさにそれを象徴するのが、本巻の表紙カバーを飾った、あのカットなのである。

そもそも、主人公の町田さわ子とは「本を読むのが面倒なくせに、読書家ぶりたい」という、読書家を(知的な人間であることを)気取りたがる「俗物」を戯画化したキャラクターであり、その友人となるSFマニアの神林しおり(もちろん、神林長平から取られた名前)は、その知ったかぶりに「ツッコミ」を入れる役どころのキャラクターだった。
だから、かつては神林が、町田その子を(「オマエが言うな!」と)全力でぶん殴るというシーンもあったのだが、最近では「その子と神林の友情物語」という側面が前面に出てきており、たしかにそれならウケは良いだろうが、施川らしさが薄れてしまって、世間によくある「いい話」に近づきすぎているように思える。

(第3巻より)

ではなぜこうなったのかというと、神林というのは「信念を持った読書家」だったから、当初は、その子の「いい加減な」「見せかけばかりの読書家ぶり」が我慢ならずに、それにツッコミを入れていたのだが、しかし、前述のとおり、施川ユウキには、そうした「潔癖さ」と同時に、それを相対化する「寛容さ」への希求もあって、神林的な「不寛容」が好ましくないものだという意識もあった。
つまり、町田その子的な「不純な動機=見栄」からであっても、それを入り口にして読書が好きになるのなら、それはそれで良いではないか、という考え方をも併せ持っていたのである。

また、だからこそ神林は、その子の「いい加減さ」にツッコミを入れた後、それでも自身の「非寛容」について自責の念を覚えもし、それを、能天気なその子が「気にするな」みたいな態度で励ましたりするから、またイラッと来て、その子をぶん殴る、みたいなことをくり返しているうちに、二人の間に「割れ鍋に綴じ蓋」的な友情関係が結ばれるようにもなった。

したがって、両者の友情とは、単純に「お互いをリスペクトし合う」といったようなものではなく、「相手の個性を尊重しつつも、足りないところを補い合う」みたいなものだと言えるだろう。
一一ところが、本巻での二人の関係は、妙に「イチャイチャ」したものになってしまっており、施川ユウキの美点であった「潔癖症」が後退しているように、私には感じられた。

そして、私が思うにこれは、施川ユウキも歳をとって「丸くなった」ということなのではないだろうか。
昔なら、「オマエが言うな!」といって殴らせていたところを、殴らせなくなってしまった。一瞬イラッとはしても、「まあ、それもありか…」みたいな、妙になんでも肯定してしまう「ウケの良いユルさ」が出てきてしまったように思うのだ。

そしてこれは、ひとつには、世間で幅を利かせ始めた「コンプライアンス」問題への、対応でもあったのではないかと思う。

ここで、本巻収録の家父長制的】と題されたエピソード(P49〜54)を分析してみたい。
このエピソードは、その子と神林の、図書室での何気ない会話として、次のように始まる。

その子「今、神林に書いた昔のSF小説、読んでるんだけど、ちょっと気になることが…」
神林 「わかるぞ」
その子「えっ」
神林 「言いたいことはわかる。昔のSFを読むと、未来のテクノロジーが描かれているのに、価値観が古いままだったりして、時々モヤモヤするんだよな。私も読んでて、たまに引っかかる。よくあるのが、女性の書き方が類型的だったり…なんて言うんだっけ? 家父長制的?
古い女性観を押しつけるようなことがサラッと書かれていて、正直ギョッとする。そーいう描写があると、好きな作品でも、信頼関係がある人以外には薦めづらいんだよね」
(神林の説明を呆気に取られたように聞いていたその子は、少し言い淀んだ後、納得したように腕組みをして頷きながら言う)
その子「そっ、そっかー。なるほど。じゃあ私は、神林に信頼されてるんだね」

だが、この後、喫茶店に移動した二人が、やはり読書談義を続けていると、その子が、

「昔のSF小説でスマホって予測されてないの? すごいカメラとかすごい通信機とか出てくるのに、スマホが出てこないなーと思って」

という話を始め、このとき神林は、図書室でその子が話したかったのは、このことだったのであり、「価値観の変化」などという話ではなかったのではないか、と気づく。

その子は単純に、昔のSF小説ではスマホが予測されなかったねという「たあわいもない話」をしたかっただけなのに、自分(神林)はその話を途中で遮って、「時代による価値観の変化」といった仰々しい問題を、聞き齧ったものでしかない「家父長制」という言葉を使って、したり顔で話してしまったかもしれないと、そう気づいて、恥ずかしくてならなくなったのである。

さて、この話で、施川ユウキは「何について、何を暗に語った」のであろうか?

正解は、一一「知ったかぶりのフェミニズムを皮肉ったのである。

例えば、私が批判している「似非フェミニスト」たる「リーン・イン・フェミニスト」でしかない、武蔵大学の教授である北村紗衣の、「フェミニスト批評入門」だとか「ジェンダー・フェミニズム批評入門」などとサブタイトルされた、たわいのない(映画批評を含んだ)本を読んだだけで、「家父長制」なんて言葉を真似て、知ったかぶりで「フェミニズム」も語るような人たちのことを、この作品は揶揄しているのである。
「それ(その知ったかぶり)って、恥ずかしくないの?」と。

また、神林の演説に対して、その子が「そっ、そっかー。なるほど。じゃあ私は、上林に信頼されてるんだね」と答えるのは、その子が「今の価値観で、昔の作品を断罪して、悦にいる」、北村紗衣またはその読者のような「軽薄な人間ではない」と、神林がその子を信頼してくれていることへの喜びを表現しているのだ。

つまり、北村紗衣や北村ファンに「昔のSF小説」を貸したりしたら「家父長的な、女性蔑視が鼻について、楽しめなかったよ」なんて言われるのが関の山なので、そんな人には、安心して(信頼して)「このSF小説、面白かったよ」と薦めることもできない、ということなのである。
一一そんなイデオロギーに凝り固まった連中」には、昔の作品の良さなんかわからないだろう、という「批判」なのだ。

しかし、前述のとおり、今の世の中はコンプライアンス重視」が強いられた「ディストピア」みたいなものだから、そうしたことをモロに書いて皮肉ったら「炎上する」といって、本を出してもらえなくなるだろう。だから、このような「間接的な皮肉」に止めざるを得なかったということなのである。

実際、施川ユウキは、インタビューに答えて、次のように語っている。

――今作を描くうえで、特に心がけているところ、大切にしていることなどをお教えください。

政治的な話題とも読めるので、過度に政治的に見えないバランスとリアリティを心掛けました。

「読書好きが語る“昔のSF小説”…友人同士の意見交換の様子を描いた漫画に「何だかいとおしい」「すごくわかる」の声【作者インタビュー】」

つまり、「(今どきの)フェミニズム」批判だととられては厄介なので、あくまでも、いつもの「過剰な自意識」の問題として読まれるように描いた、ということである。

だが、それは嘘ではないとしても、ひとまず、北村紗衣や北村ファンには「古典SF」を、おススメしたり、貸したりしない方が「無難だ」ということにはなろう。

一一あいつらは、読書家として三流なのに、やたらと「マンスプレイニング」に威張りたがる「意識高い系」だからなあ、と。

(2025年1月20日)

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【お詫びと訂正】(2025年1月21日)
本文中に『デビュー作『サナギさん』以来の施川ユウキファンとして』と書きましたが、施川ユウキのデビュー作は『がんばれ酢めし疑獄!!』であるとのご指摘をいただきました。
必要な確認を怠って、記憶による思い込みだけで、誤った記述をしてしまった点について、ここに記してお詫びし、訂正させていただきます。
なお、本文については、「誤記」の部分に(※ 註)を付しておくことにいたします。

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