もし「不登校」というワードを撲滅できら…
「不登校」ってゆう言葉。
聞いてどう思いますか?
私はこの「不登校」と言うワードこそが不登校児とその周りを苦しめる根源になってしまっているんじゃないかと思います。
先日、目にしたやり取りで「不登校」という言葉を巡ってバトルが起きていました。
どちらが悪いわけでもないのに「不登校」というワードを引き金に意見が食い違いバトルにまで発展してしまっていたのです。
それを見たときに私が思ったことを書きたいと思います。
不登校を出しませんでした!
とっても正義感が強く、今の時代には珍しいほど子どもに真摯に向き合う熱血教師がいました。
自分の時間なんか二の次で家庭も顧みず、生徒が助けを求めていれば飛んでいく漫画に出てくるような一生懸命な先生。
先生の家族は先生の仕事に対する姿勢や人としての行動を尊敬しているので家族の時間であろうが先生が生徒のために動くのであれば快く送り出してくれるような素晴らしい家庭でした。
先生は思春期まっさかりの難しい感情を抱える中学生の担任。
崩壊している荒れたクラスでも、子供たち1人1人と真摯に向き合い話を聞き共に考え導き、1つ1つ問題を解決しながら教師として職務を全うする教師人生でした。
そんな先生は教員になり自ら学年主任を努めていた約10年間の間、1人も不登校になった子はいませんでした。
先生にとって、これ以上のことはありません。
先生は声高々に「私は長い教員人生のうち、学年主任をしていた過去10年間、不登校を1人も出しませんでした。」と明言しています。
これは生徒1人1人と向き合ってきた苦難の末での結果であり、先生にとって教員人生をかけた人生の誇りです。先生は自分の経験値を活かし「経験も実績もあるからこそ私に出来ることがある!」と、困っている保護者さんの力になろうと活動しています。
受け取り方によってこんなにも違うのか
この先生の「不登校を10年間も1人も出しませんでした」という言葉を聞いて皆さんはどう思われますか?
私の場合は初見のイメージでは、この先生はとても素晴らしい人格者だなと言う印象を受けました。10年間もの長期間で不登校を1人も出さなかったと明言できる自信は、それはそれはとてつもない苦労と努力があったんだろうと思います。そしてどのように生徒たちと関わってきたのか具体的な行動や声掛けにもとても興味を持ちました。
一方で、「不登校を1人も出しませんでした」という言葉に対して、この先生の言い方と発想自体が ”不登校=悪いこと” という認識であるという意見も多数出ていました。とくに現状で不登校の悩みを抱える親であれば尚更そう思うのも理解できます。
私は初めの段階では後者の意見は持ち合わせていませんでしたが、この言葉に対して強く反論する意見を見聞きしているうちに、反論したくなる親側の気持ちが非常に良く分かりました。
なぜなら私も不登校の親を経験しているから。
当事者であればあるほど、「不登校を1人も出しませんでした」という言葉を聞き流すことは難しくなってくるし、実際にそう思う方もたくさんいると思います。
先生側も親側もどちらも子どもを一番に考えての言動であって、目指している先は同じです。にも関わらず、こんなにも受け取る側の状況によって話は取り返しのつかないほどにこじれてしまうんだなと思いました。
このやり取りを見ていて、先生が伝えたかったことも親側の気持ちもどちらも痛いほど理解できたので、本質とは違うところで不必要に責め合うことになってしまったこのやり取りに私はとてもやるせない気持ちになりました。
冷静に考えてみた
このバトルにおいて私はただの傍観者でしたが、やるせない気持ちでモヤモヤしたので私なりに冷静に考えてみました。
私自身も不登校児の親です。
この立場から考えたとき、親が「不登校」というワードに引っかかってしまうのは世間や社会が「不登校」というワードを問題視しているからではないか?と考えました。
そして問題にされているという潜在意識があるため、不登校=悪いこと と決めつけられてしまった気になり、親も必要以上に過敏に反応してしまうのではないかと思いました。(あくまで私の場合の見解です)
しかし冷静に考えていると「不登校」って、ただ学校行っていないだけ。
「不登校」というワードの周りには各々で様々な要因がありますが、どんな理由や原因があったとしても、最終的に全部ひっくるめたら「学校を行かないことを自ら選んだ」ということじゃないでしょうか。
それは自分を守るための防衛本能かもしれませんし、他の道や自分の生きやすい方法を探して模索している途中だからかもしれません。
学校へ通っている途中で学校へ行かない選択をすると不登校というジャンルに括られてしまいます。
しかし、もし初めから学校へ行かなければ不登校にはなりません。
「自ら学校へ行く以外の道を選んだんだだね」ということになります。
こうやって考えてみると、改めて不登校は全く悪でも問題でもないのに、不登校という言葉がどうしてもネガティブで強いキラーワードとなり、子供本人とその親に鋭く突き刺さってしまうように感じます。
不登校と言う言葉は、
本人にとって罪悪感や劣等感を持たせ自己肯定感を壊します。
親にとっては、自分の子育てがいけないのではないかという絶望と焦りと不安、そして非難されているような気持ちを生み自信喪失へ。
ひいては親である自分自身の1人の人間として存在自体を否定されているような気持ちにまでさせてくる。
だからこそ非常に受け入れがたいワードであり、強く反応してしまうのも無理はない。当事者にとってはとても恐ろしいワードなんだと思います。
私もそうだったので、この思考と気持ちは本当によく分かります。
私は不登校の親の最前線を離れた今だからこそ、先生の発言に疑問を持つことがなくなっただけなんだと思います。
なので俯瞰で見れる立場であれば、この言葉にひっかかることもつっかかることもないんです。しかし、当事者である以上、簡単に流せる発言では無いという事も確かです。
不登校というワードが撲滅できれば
結局は今回の件は先生も親も、子どもの幸せを願っているだけで目的は同じです。
その過程で学校に行かないことを選んだだけなのだから、それはそれでいいのです。
それなのに、「不登校」という言葉のせいで事が余計に大きくなり、無駄にこじらせていると私は思いました。
不登校という言葉は思っている以上に怖い言葉です。
不登校というワードに取り付くイメージがネガティブすぎるんだなと改めて思ったのでした。
この言葉を撲滅することができれば
不登校児30万人と言われる今の時代、もしかしたら余裕で15万人(半分くらい)の親子の心を救えるんじゃないかなと思うのでした。
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