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本能寺の変1582 第87話 12光秀と斎藤道三 4大うつけ 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第87話 12光秀と斎藤道三 4大うつけ 

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信秀は、美濃へ出陣した。

 天文十七年1548、十一月。
 信秀は、再び、美濃へ攻め入った。
 大垣城の後詰として。
 稲葉山(井ノ口)城に、攻め寄せる姿勢を見せた。

  霜月上旬、大柿の城近々と取り寄せ、斎藤山城道三攻め寄するの由、
  注進切々なり。

  其の儀においては、打ち立つべきの由にて、
  霜月十七日、織田備後守殿、後巻として、又、憑み勢をさせられ、
  木曾川・飛騨川の大河、舟渡しをこさせられ、
  美濃国へ御乱入、
  竹が鼻に放火侯て、あかなべ(茜部)口へ御働き侯て、
  所々に烟(けむり)を揚げられ侯間、

道三は、大垣城より引き返した。

 これを、取り止め。
 急ぎ、稲葉山へ。

  道三、仰天致し、
  虎口を甘(くつろ)げ、井の口居城へ引き入るなり。

  か様に、程なく傭後守、軽々と御発足、
  御手柄、申すばかりなき次第なり。

道三は、清州織田氏と手を結んだ。

 ところが、この隙に、清州勢が古渡城を攻めた。
 道三と通じていた。

  霜月廿日、此の留守に、尾州の内清洲衆、
  備後守殿古渡新城へ人数を出だし、
  町口放火侯て、御敵の色を立てられ侯。

信秀は、撤退を余儀なくされた。

 急ぎ、帰城。
 今度は、清州織田氏と戦争状態に突入した。

  此の如く侯間、備後守御帰陣なり。
  是れより、鉾楯に及び侯ひき。

信秀は、窮地に追い込まれた。

 道三のみならず。
 清洲織田氏までも。
 そして、今川義元、・・・・・。

信秀は、清洲織田氏との和睦に失敗した。

 交渉役は、平手政秀。
 しかし、これは不調。

  平手中務丞、
  清洲のおとな衆、坂井大膳・坂井甚助・河尻与一とてこれあり。
  此の衆へ、無事(和睦)の異見数通侯へども、
  平手扱ひ、相調はず。

信秀は、道三と和睦した。

 天文十八年1549。
 ここでもまた、平手政秀が活躍する。

信秀は、二面作戦を取り止めた。

 東方の脅威。
 今川義元の侵略に備えた。

信長は、道三の娘を妻に迎えた。

 同年、春。
 婚儀、成立。
 時に、信長十六歳。
 娘の方は、十五歳という。
 「政略結婚」
 斯くして、尾・濃の間に平和が訪れた。

  さて、平手中務才覚にて、
  織田三郎信長を斎藤山城道三の聟(むこ)に取り結び、
  道三が息女を尾州へ呼び取り侯ひき。
  然る間、何方も静謐(せいひつ)なり。
                     (『信長公記』)


 ⇒ 次へつづく 第88話 12光秀と斎藤道三 4大うつけ 





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