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本能寺の変1582 【重史77】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史077】 「イエズス会日本年報」 

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説 目次中 
 1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩 
 5志向の相違 +信長の油断 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正

【重史077】 そ第152話③

①明智が悪魔及び偶像の友であり、

②デウスの教えを嫌ってゐた

                  「イエズス会日本年報」

 天正十年1582
 フロイスは、光秀を酷評している。
 イエズス会にとって、信長は、庇護者。
 光秀は、その信長を殺害した張本人。
 フロイスは、光秀を敵対視している。
 したがって、かなり厳しい、記述になっている。
 そのことを割引いて解釈すべきである。

 光秀は、敬虔な仏教徒であった。
 このことが、さらに、追い討ちをかけた。

 以下は、フロイスの報告書の中に、登場する光秀の姿である。
 場面は、「本能寺の変」直後の、混乱の最中(さなか)にあった京都。

  多数であった明智の兵は街々の家を探し、信長の家臣、貴族及び殿達を
  発見し、その首を斬ってこれを差し出した。
  首は明智の前に山をなし、死体は市街に遺棄された。

  都の住民は事の結末がいかになるのか心配し、
  明智が家に匿れてゐた者を殺さんとして都に火を放つであろうと考へ
  た。
 
 光秀は、イエズス会を嫌っていた。
 フロイスは、そう、明言している。

  我等カザにゐた者が一層惧(おそ)れたところは、
  明智が悪魔及び偶像の友であり、我等と親しからず、デウスの教えを嫌
  ってゐたのみならず、 

 フロイスもまた、光秀に、悪感情を抱いていた。
 迫害される、と思っていたのだろう。
 ところが、・・・・・。

  我等は信長の庇護を受けた者である故、火をカザに放たせ、
  その部下が聖堂の物を掠奪するであらうことであったが、

 光秀は、都の安寧を優先した。
 
これが、光秀の基本的な姿勢。
 「平穏無事な世の中」を、志向していたものと思う。

  明智は都の街々に布告を発し、
  市を焼くことはない故、安堵し、彼が成功したことを喜ぶべく、

 光秀は、将兵の統率力に優れていた。
 見事なリーダーシップである。
 信長の先例に倣ったわけである。

  もし兵士にして害を加ふるものがあれば、これを殺すべしと言った。
                      (「イエズス会日本年報」)


 【引用】そ第152話③



 ⇒ 次へつづく



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