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本能寺の変1582 【重史73】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史073】 「兼見卿記」 

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 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説 目次中 
 1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩 
 5志向の相違 +信長の油断 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正

【重史073】 そ第201話③

廿五日、丙寅、未明、安土に下向、発足しおわんぬ、

                     「兼見卿記」

 天正八年1580
 
一月二十五日。
 光秀は、坂本にいた。
 吉田兼見は、信長に、年始の挨拶のため、安土へ向かった。
 これを、取り次いだのは、堺の代官 松井友閑。
 光秀では、ない。
 
  廿五日、丙寅(ひのえとら)、
  未明、安土に下向、発足しおわんぬ、
  申の刻(16時頃)、下着、
  友閑へ、使者を以って、明日、御礼に登城すべきの由、返事、
  友閑より、使者、
  明朝、友閑宅に至って登城すべし、
  朝飡(ちょうそん)を用意すべしの由、申されおわんぬ、
  一往、斟酌、
  重ねて、申し来たるの間、登城すべきの由、返事しおわんぬ、
                          (「兼見卿記」)

 【引用】そ第201話③



 ⇒ 次へつづく

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