本能寺の変1582 重要 ◎第12話 240116 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
重要 ◎第12話 240116
4光秀の苦悩 4粛清の怖れ 4/7
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*加筆修正 240116
◎佐久間信盛は、別格の存在だった。
信長は、信盛に特別な待遇を与えていた。
一、信長家中にては、進退各別に侯か。
◎信盛は、七ヶ国の大軍勢を率いていた。
織田家中、最大の軍団である。
光秀・秀吉・勝家など、足下にも及ばない規模であった。
信盛は、その、総指揮官だった。
三川にも与力、尾張にも与力、近江にも与力、大和にも与力、
河内に与力、和泉にも与力、
根来寺衆申し付け候へば、紀州にも与力。
少分の者ども候へども、七ケ国の与力。
其の上、自分の人数相加へ、働くにおいては、
何たる一戦を遂げ候とも、
さのみ越度(おちど)を取るべからざるの事。
◎すべては、信長の決めたこと。
織田家は、躍進著しい急成長企業。
信盛は、最古参の一人。
柴田勝家と双璧をなす筆頭重臣である。
勝家は、越前へ (天正三年1575より) 。
織田家は、人材不足。
信長の眼鏡に適う人材が、他に、いないのである。
「仕方なく」、・・・・・。
それ故の人事だった。
その意味では、信長は、年功序列主義・保守的だった。
と、言うことになる。
すべては、信長の決めたこと。
「臨機応変」
信長には、このような一面もあった。
◎信長の忍耐も、限界に達していた。
信長は、信盛に水野信元の遺領を与えていた。
そのことについて、両人の認識に、大きなズレが生じていた。
信長は、「武」を期待した。
だが、信盛はそれに応えず。
「銭儲け」へ、と走った。
信長が、何故に、そうしたのか。
信盛には、わかっていない。
一、小河(緒川)・かり屋(刈谷)、跡職(あとしき)申し付け侯ところ、
先々より人数これあるべしと思ひ侯ところ、其の廉(かど)もなく、
剰(あまつさ)へ、先方の者どもをば、多分に追ひ出だし、
然りといへども、其の跡目を求め置き候へば、
各(おのおの)、同前の事侯に、
一人も拘(かか)へず侯時は、
蔵納とりこみ、金銀になし侯事、言語道断の題目の事。
山崎の支配を任せた時も、同様だった。
一、山崎申し付け候に、信長、詞(ことば)をもかけ侯者ども、
程なく追ひ失はせ侯儀、
是れも最前の如く、小河かりやの取り扱ひ紛れなき事。
◎信盛は、「武」より「財」を優先した。
家臣たちの扱いについて、述べている。
信盛は、蓄財に走った。
一、先々(先代)より、自分に拘(かか)へ置き侯者どもに、
加増も仕り、似相(にあい=相応しい)に与力をも相付け、
新季に、侍をも拘ふる(召し抱える)においては、
是れ程、越度はあるまじく侯に、
しは(吝)きたくはへ(貯え)ばかりを、本(もと)とするによつて、
◎信長は、信盛が他の家臣たちへ悪影響を及ぼすと考えた。
「不幸」としか、言いようがない。
信盛には、荷が重すぎた。
主の意を、汲み取れず。
逆行するのみ。
結果、そこには、過酷な結末が待ち受けていた。
今度、一天下の面目失ひ侯儀、
唐土・高麗・南蛮までも、其の隠れあるまじきの事。
(『信長公記』)
◎信長は、誇り高い男であった。
忘れもしない、あの日、あの時。
信長は、鮮明に記憶していた。
天正元年1573。
八月十三日、夜中。
「朝倉破軍の刻」
朝倉勢を、急襲・追撃して、大勝利した時の戦い。
信長は、信盛に面目を潰された。
という、一件があった。
信長は、堪えた。
◎そして、執念深い。
そのことを、引き合いに出した。
信盛の一言が、その場の雰囲気をぶち壊した。
一、先年、朝倉破軍の刻(きざみ)、
見合せ、曲事(くせごと)と申すところ、
(信長が、信盛らの見通しの誤りを叱責したところ)
迷惑と存ぜず、結句(けっく)、身ふいちやう(吹聴)を申し、
剰(あまつさ)へ、座敷を立ち破りし事、
時にあたつて、信長、面目を失ふ。
その口程もなく、永々、此の面にこれあり、
比興(ひきょう=卑怯)の働き、前代未聞の事。
◎信長は、信盛の息子、信栄の行状に呆れ果てた。
父が父なら、・・・・・。
子も子である。
一、甚九郎、覚悟の条々、書き並べ侯へば、
筆にも墨にも述べがたき事。
(『信長公記』)
中でも、信栄の茶狂いは有名だった。
津田宗及の「天王寺屋会記」にも、頻繁に登場している。
◎これが信長の視点。
信長は、視野が広い。
◎信長は、重臣の子供たちへも注目していた。
光秀の子らのことも、よく知っていた。
細川藤孝、然り。
荒木村重、同。
・・・・・。
これらについては、後述する。
⇒ 次へつづく
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