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本能寺の変1582 【 重史 002 】 240619 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【 重史 002 】「立入左京亮入道隆佐記」 240619 

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→【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 
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*加筆修正 240619 

【 重史 002 】

①美濃国住人、土岐の随分衆なり、

②名誉の大将なり、弓取りはせんじてのむへき事に候、

                 「立入左京亮入道隆佐記」

◎第53話

 時は、天正七年1579、六月十日。
 場面は、丹波八上城を攻め落とした光秀が、捕らえた城主波多野秀治を、
 安土へ護送する途中、京を通過した時の模様である。

 ①光秀は、土岐氏の随分衆だった。
 「随分衆」とは、身分の高い者をいう。
 ②光秀は、世間からも、注目されていた。
  光秀は、希望の星。
  憧れの的だった。

  丹波国、惟任日向守(光秀)、
  御朱印を以って、一国下行(げぎょう=下賜)せらる、

  時に理運、申し付けられ候、
  前代未聞の大将なり、
  坂本城主、志賀郡主なり、 

  多喜郡高城、波田野兄弟、
  扱いにて送らるゝの刻、路地に於いて、からめ取り、
  安土へ、馬上にからみつけ、
  つゝをさしほだしをうち、
  はたの、おとゝい(一昨日)、はたもの(磔)に上せられ候、

  前代未聞なり、
  天正七年六月十日、京都を通るなり、

    美濃国住人、土岐の随分衆なり、
    明智十兵衛慰、其の後上様より仰せ出され惟任日向守になる、

  名誉の大将なり、
  弓取りはせんじてのむへき事に候
                    (「立入左京亮入道隆佐記」)

 【引用】◎第53話
     見えてきたもの 2光秀という男 1光秀の年齢 3持てる者



 ⇒ 次へつづく

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