本能寺の変1582 重要 ◎第13話 240117 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
重要 ◎第13話 240117
4光秀の苦悩 4粛清の怖れ 5/7
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*加筆修正 240117
◎信長は、合理主義者である。
信長は、鋭い人物眼の持ち主。
重臣たちへ。
絶えず、目を光らせていた。
役に立つ者、これを抜擢。
そうであらねば、切り捨てられる。
最大の敵、本願寺を倒した今。
長老・古参・大身とて、容赦はしない。
◎光秀は、出来る男。
信長は、光秀に、一目置いていた。
それに、比べて、信盛は、・・・・・。
◎信盛は、光秀と真逆の人物だった。
最早、打つ手無し。
信長は、止まらない。
脳裏にあるのは、明智光秀。
◎武将としても。
信盛は、強欲で、武士道精神が欠如している。
一、大まはしに、つもり侯へば(大略を言えば)、
第一、欲ふかく、気むさく、よき人をも拘(かか)へず、
其の上、油断の様に取沙汰(職務怠慢との噂)侯へば、
畢竟(ひっきょう)する所は(結論として)、
父子とも、武篇道たらはず候によつて、かくの如き事。
◎所領の扱いについても。
信盛は、与えた所領を無駄にしている。
兵を養わず、銭金に替えている。
信長の立腹、収まらず。
同じことを、繰り返している。
余程、頭に来ていたのだろう。
一、与力を専(もっぱら)とし、
余人(味方になりたい人)の取次にも構へ侯時は、
是れを以て、軍役を勤め、
自分の侍(さむらい)相拘(かか)へず、
領中を徒(あだ)になし(所領を無駄にして)、
比興(卑怯)を構へ侯事。
◎与力・家臣の扱いについても。
信長は、信盛をこのように見ていた。
一、右衛門与カ・被官等に至るまで、斟酌(しんしゃく=遠慮)侯の事、
たゞ別条にてこれなし(特に変わった理由があるわけではない)。
其の身、分別に自慢し、うつくしげなるふりをして、
錦の中にしまはり(針)をたてたる上を、さくる様なる
こは(怖)き扱ひに付いて、かくの如きの事。
◎信長は、光秀を見習えと言っている。
光秀は、「日向守が働き、天下の面目をほどこし侯」、であり。
◎これが、信盛の生き方だった。
信盛は、「この三十年間、手柄らしい手柄を上げていない」、である。
一、信長代になり、三十年奉公を遂ぐるの内に、
佐久間右衛門、比類なき働きと申し鳴らし侯儀、
一度もこれあるまじき事。
◎信長は、それを見ていた。
光秀を、見よ。
秀吉を、〃〃。
勝家を、〃〃。
四人は、ともに、織田家最高位の重臣。
当然、比較の対象となる。
◎信長は、猜疑心の強い男。
◎信盛は、油断した。
信長の性格を、よくわかっていない。
◎三方ヶ原の合戦。
八年前。
元亀三年1572、十二月。
敵は、戦国最強を誇る甲斐の虎。
あの、武田信玄である。
徳川家康、最大の危機。
信長の四囲は、皆、敵。
信長は、家康を支援するため、信盛を将とする軍勢を浜松へ派した。
一、一世の内、勝利を失はざるの処、
先年、遠江へ人数を遣(つかは)し侯刻(きざみ)、
◎信盛は、逃げた。
しかし、信盛は、戦わず。
戦場から、離脱した。
戦死した者は、一人もいない。
これでは、一体、何故の派兵だったのか。
・・・・・。
互に勝負ありつる習、紛れなく候、
(勝敗があるのは世の習い、敗れたのは紛れもない事実である)。
然りといふとも、
家康使をもこれある条、をくれの上にも、
(家康の強い要望があったのだから、後れを取ったとしても)、
兄弟を討死させ、又は、然るべき内の者打死させ候へば、
その身(信盛)、時の仕合(状況)に依て、遁(逃)れ侯かと、
人も不審を立つべきに(推量するだろうに)、
一人も殺さず。
◎信長は、信盛に疑念を抱いた。
繰り返す。
信長は、猜疑心が強い。
その上、執念深いのである。
◎信長は、誇り高い男。
◎信長は、面目を潰された。
そして、誰よりも、誇り高い男なのである。
剰(あまつさ)へ、平手(汎秀)を捨て殺し、
世にありげなる(平然とした)面をむけ侯儀、
爰(ここ)を以て、条々、無分別の通り、紛れあるべからずの事。
(『信長公記』)
◎光秀は、苦悩していた。
なるほど、明智の再興は、成った。
光秀は、織田家最高位の重臣の一人にまで上り詰めた。
最早、かつての明智にあらず。
今や、家中、一、二の大身。
多くの家臣たちがいた。
順風満帆。
武士の鑑。
憧れの存在。
そのように、見えた。
されど、・・・・・。
◎光秀は、洞察力に優れていた。
光秀には、先が見えた。
◎光秀は、五十九 ± 四歳。
天正十年1582時 。
【参照】第77話 11光秀の年齢 5結論
◎信長は、四十九歳。
同 。
◎二人の間には、大きな年齢差があった。
◎光秀は、猜疑心が強い。
◎光秀は、信長を信用していない。
◎後継者光慶は、あまりにも若すぎた。
十三歳 (同) 。
◎光秀は、信長より、確実に、先に死ぬ、・・・・・。
天正四年1576、光秀は、陣中で、大病を患ったことがあった。
体力的に見て、それ程、頑健というレベルではなかったように思う。
老い先は、長くはなかろう。
そう、思っていたのではないか、・・・・・。
「人生五十年」の時代。
光秀は、疾(と)うに、その年を越えていた。
「老い」
いつ、死んでも、おかしくない年代だった。
参考までに。
五年後。
光秀、六十四 ± 四歳 (天正十五年1587) 。
光慶、十八歳。
十年後。
光秀、六十九 ± 四歳 (文禄元年1592) 。
光慶、二十三歳。
◎未熟な光慶を一人残して、・・・・・。
◎光秀は、信長の気性・性格を知悉していた。
◎役に立たねば捨てられる。
◎光秀は、粛清を怖れていた。
◎「天下布武」が成った後。
◎その時、自分は生きているのだろうか、・・・・・。
◎残された時間は、あまりにも短い。
◎光秀は、不安だった。
◎明智の将来は、暗い。
◎明智に、危機が迫っていた。
◎ならば、・・・・・。
⇒ 次へつづく
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原因・動機の究明は、この一歩から!!
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「本能寺の変」
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