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本能寺の変1582 【 重史 019 】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【 重史 019】「武家事紀」

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→【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 
その一因 目次 
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【 人物 】 
*加筆修正 

【 重史 019】 ◎第116話 ◎小116

路次険難、老足叶うべからざる儀に候間、    「武家事紀」

【 重史 018】
 
⑧信長は、北条氏との友好関係を保持した。

   相州氏政、駿河へ在陣にて、一廉(ひとかど)馳走候、
   東八箇国の儀は勿論、異儀なく隙を明け(平和である)候、

 ⑨信長は、信忠を現地に残した。

   然らば、甲斐・信濃の事、城介を残し置き申し付くべき候、
   信長は、不日帰国すべく候、

 ⑩信長の、老臣に対する姿勢である。

   爰許(ここもと)見廻り、無用に候、
   年寄ども、呼び寄すべきと存じ候へども、
   路次険難、老足叶うべからざる儀に候間、罷り越すべからず候、

 ⑪信長は、友閑に、世に喧伝するよう命じた。

   此の口の趣、安土へも未だ申し越さず候、
   京都・五畿内並に羽柴藤吉郎方迄、残らず相触るべく候、
   其の為に具(つぶさ)に染筆候也、

     三月七日(十脱)        信長
     宮内卿法印
           (「武家事紀」「織田信長文書の研究」⑧~⑪/⑪)


 【参照】11光秀の年齢 5結論 ◎第77話 ◎小77 
 【参照】10信長の甲斐侵攻 3信長、出陣 ◎第66話 ◎小66
     信長は、わずか一月で四ヶ国を手に入れた。
     「長篠効果」「本願寺効果」「武田効果」



 ⇒ 次へつづく


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 「本能寺の変」
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