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2年目の週次のひとりごとです。
週次からはみでたひとりごと。
週次のひとりごとです。
つぶやき
【ままならない。】という名義で曲を量産しているプロジェクトの歌詞など
About いまは未だ、あるいはこの先も、とくに何者でもないです。特技や特徴もなし。強いてあげるのであれば特技や特徴というようなものごとは身を置く集団のなかで相対的に決定されるものだと思っているところがひとつ特徴かもしれない。つまり、どこか集団に身を置かない限り特技や特徴というものは立ち現れてこないのだ、と思います。そして例えば自己肯定感なんかと同じように、特技や特徴はあくまでもアディショナルなものであり「それがないとどうしようもない」という類のものではないのだと思います
また曲を作る。 山肌迫る谷道をバイクで駆け抜けながら、前日に読んだ漫画のことを思い出す。それは学生の頃に好きだった作品で、アニメ化やドラマ化などによって不必要に濁ることがなく、純粋な記憶の結晶のような物語だった。 ライダースジャケットの袖から忍び寄る冷気のせいか、よく冴えた頭にひとつのメロディと構想が降りてきた。 それを何度も復唱し、補修し、螺旋階段を上がるように発展させていった。 休憩所に着いて、それが消えないうちにボイスメモを立ち上げてメロディを口ずさむ。そ
長らく「どのように生きるか」などと考えることはなく、それはおそらく夢や目標を用意することに本質的な意義を感じておらず、誤った方向に向けて視野狭窄となるくらいならばその場凌ぎを繰り返す程度でよいだろう、と思っていたからだ。 ここ最近「どのように生きるか」などと考えるが、それは正確には「どのように生活するか」と言ったほうがよい思考であり、つまり未来と呼ばれる時間と現在における生活が次第に結びついてきたことを表しているのだろう。 早々に歩く方向を決められる人は立派である。
都会は文化資本で溢れているという。 都会には人が集まり、ゆえに資本が集まり、ゆえに人が集まり、そのループのなかで「文化」が集約されていくという。 僕は音楽を始めとした創作活動に取り組んでおり、そこではたびたび「若い才能の芽」のようなものに触れる機会がある。彼ら彼女らは都会育ちであることが多い。少なくとも、人生の早い段階で都会に生活の基盤を置き始めているように思われる。 また仕事においても、インターンシップやOBOG訪問を通じて学生時代から就職後を見据えた人脈を築い
型というものに上手くハマれない。 殊に日本の伝統芸能においてはまず型を身体に覚え込ませてからそこから発展させることが修得の型とされている。序破離とかそういうやつ。 過去を振り返れば基礎というものを大切にしない期間が多かった気がするが、少なくともいまはそういう意味での型は大切にしているつもりである。 馴染むことができない「型」というのは、例えば「男だったらこうあるべき」とか、「就活はこういうふうに進めるべき」とか、より具体的な、知らぬ間にポストに溜まっていくダイレ
朝、目覚めるたびに、新しい自分へと生まれ変わる。 そう表現すると聞こえはよいが、実態としては前日に考えていたことや決意したことを忘れてしまうだけである。 例えば「明日は早起きしよう」と決意しても、翌朝にはお約束通り二度寝してしまうような。新しい自分は早起きを望んでいなかったみたいだな、とため息をつく新しい自分。 僕はいろいろと忘れっぽく、飽き性で、次から次へとやりたいことが浮かんでくる。あまりなにかに依存するということがないから、上手くいきそうになければすぐに手を
頻繁に、田舎に帰るようにしている。 とくべつな用事のない連休はだいたい、自然のなかでくつろぎに行く。 ゆっくりとした時間の過ごしかただとか、都会の喧騒から離れるだとか、俗にイメージされる「田舎での生活」を求めているわけではない。そこには大袈裟な意味や明確な意思はなく、ただなんとなく「帰るか」と思い立って田舎に帰るのである。 窓から窓へ通り抜ける風が、淀みない空気の流れを感じさせる。昼間は晴れていたのに、星を観に行こうと家を出たら雨の気配がする。しばらく待ってみると
新しいバンドを組んだ。 具体的な構想を描かない段階の話なら、何度となくその言葉を繰り返していた。そして何度となく流会を繰り返していた。 今回は、それまでの「新しいバンド」より具体的な動きを描けている。またそこにはずっと組んでいるバンドの「新しい動き」も付随している。そのため、自分のその言葉に少しは信憑性を感じることができる。 基本的にメインの作家は僕が務めるため、複数バンドを組むとそれぞれのバンドでどんな違いを出すかということから考える。 最近は個人としても楽
ひとつ休日を挟むたびに、表面で考えているものごとが変わる気がする。 予定のない週末は僕にとって珍しい。あちらこちら遊びまわるタイプではないと自認しているのだが、気付けば2ヶ月間ずっと休みの日には東京から出ているなんてこともある。 旅行から帰ってきたあと、以前考えていたことがなんなのか、すぐには思い出せなくなる。 自分はなにを作ろうとしていたのか、なにを始めようとしていたのか、意識の表層にあったはずのものが沈んで失せてしまっている。 定期的な予定として日々に組み
ずっと「自分だけがよくわかっていない」のなかを生きている。 僕は固有名詞を覚えるのが苦手で、小さいころから周りの子どもたちが語るあれやこれを「どこか知らない場所に、なにか知らないものがあるんだなあ」と聞いていた。車の種類、テーマパークの名前、スポーツ選手、などなど。 幼少期の我が家では、見ていいテレビ番組は姉弟で合わせて三つと決められていた。映るチャンネルは限られていたし、どんな番組があるのかも知らなかった。 また、遠い町の幼稚園に通っていたり、小学生になってから
一般的な角度からは僕はそのひとのことをなにも知らなかった。しかしすこし個人的な角度から僕はそのひとのことを少しだけ知っていた。知っていたという表現は正確ではないかもしれない。一度だけ、僕は個として、個としてのそのひとと会話を交わしたことがあった。ひとことふたことのことだったが、会話という言葉を広義に捉えるなら、それを会話と言っても差し支えないだろう。 すこしまえのこと。本当に偶然の成り行きで、そのひとがすでにこの世にいないことを知った。 それがどんな事情からもたらさ
生命について。 僕はprocessingというプログラミング言語を用いて、「generative art」あるいは「creative coding」と呼称される営みに取り組んでいる。 一般に芸術性とされるもののカケラも持ち合わせていない僕ではあるが、アーティストと称されるひとは一貫したテーマを持つことが多いように思える。 見様見真似ではあるが、僕もそういった一貫したテーマというものを標榜している。 それは具体のレイヤーに寄せて言うなれば「人工生命」である。
意図について考える。 誤って配置されたように見える図式、不必要に難解であるように思える設問、不親切な案内に聞こえる発言。 それらはもちろんなにかしら「及んでいない」部分によりもたらされる、ソフトウェアに混在したバグのようなものであることが多い。 しかし、必ずしもすべての「至らなさ」が「至らない」ゆえに存在するわけではないと思う。 エラーは処理を止める。摩擦は勢いを減ずる。なら勢いを減ずるには摩擦をデザインすればよいのではないか。 意図的に用意されたそれは
僕は海に向かっている。 予定というものは水の染み込んだスポンジのようなもので、思っているよりも詰め込んでしまい、そのときになって驚くことが多い。 僕は「やらないこと」を決めて意識の俎上にあがるものをなるべく減らすようにしている。同時に「やりたいこと」は定期的に増えるし、「お願いされたこと」を安請け負してしまいがちなので、なんだかんだ言って常に手元は楽しみでいっぱいだ。 最近はだいたい二、三ヶ月さきの土日の予定は埋まり始めていて、翌月の土日はすでにやることや行くと
知らない街を歩くことが好きだ。 それは普段は覗きさえしない路地に迷い込んでみるだとか、いつもの電車をひと駅前で降りてみるとか、こぢんまりとした「知らない街を歩くこと」だったり、旅先の街をあてもなく彷徨ってみることだったりする。 そこにはなんの感動も感慨も無い。 言葉として「知らない土地の、ひとの営み」と唱えることはできる。ただその「知らない土地の、ひとの営み」が僕の感情に対して直接的になにかしらの作用を及ぼすことは少ない。 それはもしかしたら僕の感情の動きが乏
「続ける」と明示的に表明することに違和感のあるものごとがある。 「ある行為を続ける」と宣言するとき、同時にその行為は本質的に有期性を持つ、あるいは単発の行為であると暗に認めるようなものだろう。 深いところに継続性が据え置かれた行為や、継続性自体がそれを構成するプリミティブな要素のひとつであるような行為に対して続けることを宣言するとき、いったいなにが表明されているのか。 たとえば僕は一週間に一度記事を書くという行為を続けている。 しかしそれは初めから「一週間に一度