論点放棄 #1
「続ける」と明示的に表明することに違和感のあるものごとがある。
「ある行為を続ける」と宣言するとき、同時にその行為は本質的に有期性を持つ、あるいは単発の行為であると暗に認めるようなものだろう。
深いところに継続性が据え置かれた行為や、継続性自体がそれを構成するプリミティブな要素のひとつであるような行為に対して続けることを宣言するとき、いったいなにが表明されているのか。
たとえば僕は一週間に一度記事を書くという行為を続けている。
しかしそれは初めから「一週間に一度記事を書くという行為」であると同時に、「一週間に一度記事を書くことを続ける行為」であった。記事を書いていくうちに一週間に一度のペースを掴んだのではなく、一週間に一度のルーティンワークとすることを前提に記事を書き始めたのだ。
すなわち、その行為を「続ける」というとき、継続よりも延長のニュアンスが色濃く含まれるわけである。実際に僕は「とりあえず一年実施してみて、延長するかどうかは二年目になるときに決めよう」と思っていた。(二年目のいまは「延長するかどうかは三年目になるときに決めよう」と思っている)
この場合、続けると宣言することに違和感はないだろう。
また僕は昨年の夏頃から「完全にひとりで完結する形での楽曲制作」を始めていて、いまもそれを「続けて」いる。
早いときには三時間程度で曲を仕上げてしまうこともあり、リリースにまつわる準備が間に合っていない楽曲がたくさんある。時間のあるときは思いつく限り曲を作っている状態だ。
しかしその行為あるいは習慣を一年ほど継続させたいま僕はある種の満足感を抱いており、それを「辞めようと」思っている。
なにを辞めるかというと、楽曲の制作それ自体ではなく、ふとしたときにMacに向かい曲作りを再開する姿勢を辞めようと思っている。
主な理由としては、ほかにもたくさん興味を抱いているものがあり、最も手軽に享楽に浸ることができる「曲作り」に向かう時間を意識的に制限しなければ、そのほかの関心ごとに本格的に着手するタイミングが後ろへ後ろへとズレていってしまうと感じたことが挙げられる。
曲作り自体はもちろん辞めないとして、しかし仮に具体的な制作ペースを決めないとしたら、どれだけの頻度でその行為を実施すれば「それを続けている」と見做されるのだろうか。
一度手を止めたとして、再びそこに立ち戻るタイミングが生命として本質的に抱える有限時間のなかでは訪れないとしたら、それは「続けている」とは言えないのではないか。
そうではなく、やはり僕に取って楽曲制作ははじめから「継続性」を埋め込まれた行為であり、おそらく僕はその楽曲制作を埋め込まれていると考えられるため、それを「僕がすでに辞めた行為」であると定義しない限りその埋め込みは解除されないのである。