論点放棄 #8
都会は文化資本で溢れているという。
都会には人が集まり、ゆえに資本が集まり、ゆえに人が集まり、そのループのなかで「文化」が集約されていくという。
僕は音楽を始めとした創作活動に取り組んでおり、そこではたびたび「若い才能の芽」のようなものに触れる機会がある。彼ら彼女らは都会育ちであることが多い。少なくとも、人生の早い段階で都会に生活の基盤を置き始めているように思われる。
また仕事においても、インターンシップやOBOG訪問を通じて学生時代から就職後を見据えた人脈を築いていたひとをよく見かける。
一般に「スター」と呼ばれる者たちは、きっと文化資本をその土壌にたっぷりと蓄えて、豊かに育まれた感性の上にその道を整備していくのだろう。各領域で活躍している人物は幼いころからその優れた指導者に庇護されていたのだろう。
ただ僕には「それがすべて」だとは思えない。
成功には当人の努力が不可欠であり、環境はあくまでもその補助的要素にすぎない、ということを言いたいのではない。
都会には「文化資本」が溢れ、成功者はその恩寵のもとに研鑽を重ねるべきなのである、という価値観がすべてではないと言いたい。
僕は田舎で育った。社会人になったときにはじめて、東京で生活を始めた。
僕の学生時代には、例えば十代が主役の物語でよく描画されるような青春は登場しなかった。
地元にはライブハウスなどなく、音楽はスピーカーの向こうで電子的に再生されるものであった。大学時代はそれなりに大きな街で暮らしていたが、創作活動を通して「道を提示してくれる大人たち」の目に触れられるような環境にはいなかった。
ただいまになって思うのは、ずっと華やかさのもとで踊ってきた者たちとは違う経験を、僕たちは手にしていることだ。
文字としてなぞってしまえば当然のことではある。
しかし、暗黙のうちに提示されているように思われる「文化資本のもとで醸成される感性こそ素晴らしいものである」という前提を取り払ってみるとどうだろう。
どれだけメディアが多様化しようと、「金になるもの」を中心に物事が回っていくのは変わらない。それゆえに「金になる者」になるための手順ばかりが流布する。
けれど、創作活動は本来もっと自由なものだ。「もっと」というある基準値と比較する修飾語すら相応しくない。ただあるがままに、自由なものだ。
僕たち田舎育ちの者には、僕たち田舎育ちの者に特有の土壌がある。
ないものをねだるのではなく、「あるもの」を用い「ないこと」を活かす。そうやって気ままに創作活動に取り組んでいきたい。