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中継地 #3
一般的な角度からは僕はそのひとのことをなにも知らなかった。しかしすこし個人的な角度から僕はそのひとのことを少しだけ知っていた。知っていたという表現は正確ではないかもしれない。一度だけ、僕は個として、個としてのそのひとと会話を交わしたことがあった。ひとことふたことのことだったが、会話という言葉を広義に捉えるなら、それを会話と言っても差し支えないだろう。
すこしまえのこと。本当に偶然の成り行きで、そのひとがすでにこの世にいないことを知った。
それがどんな事情からもたらされた選択なのか、僕はメディアが語ること以上に類推の材料を持たなかったし、メディアが語っていたのはそれを基に類推することに興味を持てない類の材料だった。それゆえに僕はその知らせを例えばポストに押し込まれるチラシのように、内容に関心を抱くことなく棄却した。
僕とそのひとの間には先に述べた以上の関わりはなかったから、僕のなかに個人的なかなしみに類する感情がなかったのは自然なことだと思う。いまでもそう思う。
とおい国で起こっている争いに対して抱かれる感情は、個人的なものではなくもう少し抽象的なもので然るべきだろうと思うし、そのような感情はかなしみよりもう少し薄いものだと思う。それはあるいは僕がどちらかというと薄情な人間に分類されるから思うことかもしれないし、そうであれば申開きのしようはない。
ただそのひとはどうやら僕が忌避する類の領域に足を踏み入れていたようであるし、繰り返すがもとよりひとことふたこと交わした程度の関係なのだ。そもそも向こうは確実に僕のことなど覚えていないだろう。
従って、僕がそのひとの自死に個人的なかなしみを見出せないのは自然なことなのだ。
ひとつだけ、僕の思考を動かしたものがあった。
それはどこかの誰かの、「こういった哀しい出来事を引き起こしてはいけないということに、そろそろわたしたちは気付くべきだ」という発言だった。
人間は「叩いてもよい」と大勢が思っていると判断したものに対して、容赦なく批判を浴びせるものだ、それは本質だ。
その本質を「悪」とみなすことに違和感はない。
しかしその発言(あるいはそれに類する他のひとの発言)が、「自分が叩いてほしくない」と思う者に対する批判を否定しているのか、「容赦なく批判を浴びせる」という行為そのものを否定しているのか、それがわからなかった。
個人的な意見をあたかも普遍的な意見かのように述べるのは、そしてその題材として他者の命を用いるのは、果たしてそこでかたられた正義を支持しうるものだろうか。