論点放棄 #2
僕は海に向かっている。
予定というものは水の染み込んだスポンジのようなもので、思っているよりも詰め込んでしまい、そのときになって驚くことが多い。
僕は「やらないこと」を決めて意識の俎上にあがるものをなるべく減らすようにしている。同時に「やりたいこと」は定期的に増えるし、「お願いされたこと」を安請け負してしまいがちなので、なんだかんだ言って常に手元は楽しみでいっぱいだ。
最近はだいたい二、三ヶ月さきの土日の予定は埋まり始めていて、翌月の土日はすでにやることや行くところが決まっている。
加えて平日に会社やサークルの飲み会が入りがちであり、明示的にひと息つける時間を欠いているな、と感じることがある。
本来的には自宅がだいすきで、インドアな趣味も多い。コーヒーを飲みながら曲を作ったりコーディングをしたり、あるいは読書をしたり映画を観たりといった穏やかな時間を望んでいる。将来は田舎に帰って、おおきな犬と一緒にのんびりと暮らしたい。
しかしさいきん、わりに自分が寂しがりであること自覚的になった。
きっかけは定かではない。仕事がテレワーク中心から出社中心になったからかもしれないし、連日いろんな場所の友達と会っていたおかげで、静寂の質感を過敏に感じるようになったからかもしれない。引っ越しの検討に伴って、数年間のうちに出会った近所の人々ともお別れかと想像し、多少なりとも名残惜しさを覚えることもあった。
さればこそ、いただいたお誘いにはなるべく応えるようにしており、自主的に入れる様々な予定と相まって落ち着いた休日が足りなくなっているのである。
さて、僕はいま海に向かっている。ふだんは乗らない電車に揺られて、ふだんは目にしない街並みを眺めている。
今回の予定において僕は主催者ではないため、前日の深夜になって初めてスケジュールや持ち物を確かめた。寝坊をして一次の集合時間には間に合わずニ次便を目指している。要は適当なこころもちなのである。
適当なこころもちを許容してくれるところが多く、だからひとりで過ごす休日がなくても休息に不足はない。ありがたいことだな、と思う。そのぶん、自分がなにかを催すときはほかのひとの適当なこころもちを受け入れたいなと思う。
夕方には解散する予定なので、夜には東京に帰ってべつの友達と会う。翌日はまたべつの友達と海を見に行く。
それは軟体のような目まぐるしさで、目まぐるしさを感じないままに回り続けているようである。