中継地 #7
長らく「どのように生きるか」などと考えることはなく、それはおそらく夢や目標を用意することに本質的な意義を感じておらず、誤った方向に向けて視野狭窄となるくらいならばその場凌ぎを繰り返す程度でよいだろう、と思っていたからだ。
ここ最近「どのように生きるか」などと考えるが、それは正確には「どのように生活するか」と言ったほうがよい思考であり、つまり未来と呼ばれる時間と現在における生活が次第に結びついてきたことを表しているのだろう。
早々に歩く方向を決められる人は立派である。それは優れた効能を持ち、自分にはできないことであるがゆえに、それを立派であると述べる。
早々に歩く方向を決められる人のいくらかは「人生において早々と呼べる時期に歩く方向」を決められる人である。そのなかに、人生において早々と呼べる時期を終えた後に歩く方向を事前に考える人がいる。彼ら彼女らのなかには傍目にはなんの苦労もなく物事を進めているように見える者もいるかもしれないが、そこには入念な計画があり、着実な実行があり、それらがたとえなんの苦労もなく執り行われたとしても、それらを執り行ったという事実が既に「なんの苦労もなく」という修飾語から逸脱している。
仮に、ここに幼い頃より人生計画を立てていた人がいたとして、それが誰かに与えられたものだったらどうだろう。実際に発端となった意思は本人のものであったとして、残りの計画がすべて誰かによって与えられたものだったら。計画はすべて誰かによるもので、実行だけが当人のものだったら。
生き方を考えるときに、どこかで「誰もが想像する正解」から外れたいという気持ちが浮かんでしまっていた。あるいは、大多数の人間が当たり前に理解している正解がどうにもわからなかった。
かといって遠い未来を独力で見透すような知識も経験もなかったから、なし崩し的にその場凌ぎの行動を繰り返すことになってしまっていただけだ。
いまでは考えるべき将来が比較的近いところにあり、考えるべき内容も地に足ついたものになった。
それゆえ僕のような凡人にもそれは十分に想像可能なものであり、想像力を欠いたままでも立案可能なものである。
ここ最近「どのように生きるか」について考える。実行に移すために必要なものを数え上げる。
数え上げ可能な集合からそれを取り出せるようになるまで、あとどれくらいかかるだろう。