論点放棄 #6
頻繁に、田舎に帰るようにしている。
とくべつな用事のない連休はだいたい、自然のなかでくつろぎに行く。
ゆっくりとした時間の過ごしかただとか、都会の喧騒から離れるだとか、俗にイメージされる「田舎での生活」を求めているわけではない。そこには大袈裟な意味や明確な意思はなく、ただなんとなく「帰るか」と思い立って田舎に帰るのである。
窓から窓へ通り抜ける風が、淀みない空気の流れを感じさせる。昼間は晴れていたのに、星を観に行こうと家を出たら雨の気配がする。しばらく待ってみると、夜露に濡れた草木の匂いをそれと勘違いしていたことに気づく。
少し歩けば、街頭のない場所に出る。けれど遠くの景色はそれなりに明るくて、びっくりするほど満点の星空が広がっているわけでもない。今日は雲がほとんどないから、東京よりはたくさんの、キャンプ場よりは少ない、それなりの光景を目にすることができた。
この夏は、土手に登る道をふらふらしている間によくわからない虫に咬まれていて、足が腫れ上がってしまった、そんなことを思い出す。
コンビニはあるし、田んぼばかりというわけでもない。でもスーパーは隣町に行かないとないし、地元のひとが集まるような飲食店もない。ほんとうになんの特徴もない地域。高校に入ってから、ここはただ帰って寝るだけの土地だったから、近所のひとと世間話をすることもない。隣の家に住む同級生を見かけても、わざわざ声をかけることもない。
この町を出てからたまに戻ってくるたびに、ひとつの滞留点のような、時の流れが止まっている場所のように感じていた。
もちろんそれは錯覚で、不可逆な変化を時々垣間見ることになる。
その不可逆な変化はあるいは予期できることであり、もちろん予期していたことであり、そして予期していることである。ひとつひとつ、実際の現実としてそれを確かめるというだけ。
そういえば最近、町のはずれにちょっとした商業施設ができたらしい。
どうして他の地域に作らなかったのかはよくわからないし、喜ばしいことなのかもわからないが、とにかくなにもない町がその商業施設がある町に変わったことだけは確かだ。
だからといって僕にはあまり関係のあることではない。それよりも、友達や家族とよく行っていた隣町のお店が閉店しただとか、子どものことに心待ちにしていたお祭りがもう長いこと開催されていないだとか、失くなったという現実を記憶と擦り合わせるのである。