論点放棄 #3
意図について考える。
誤って配置されたように見える図式、不必要に難解であるように思える設問、不親切な案内に聞こえる発言。
それらはもちろんなにかしら「及んでいない」部分によりもたらされる、ソフトウェアに混在したバグのようなものであることが多い。
しかし、必ずしもすべての「至らなさ」が「至らない」ゆえに存在するわけではないと思う。
エラーは処理を止める。摩擦は勢いを減ずる。なら勢いを減ずるには摩擦をデザインすればよいのではないか。
意図的に用意されたそれは、あるいは傍目には取り除かれるべきガンのように映るかもしれない。取り除かれるべきガンを取り除くことが、ある種の能力であると定義できるかもしれない。
しかし僕はときにそこで立ち止まって、その不備の背景にある意図を確かめようとする。
注意力を測るための試験が、注意力を測るための試験として用意されるとは限らない。
あるサービスの「至らなさ」が担当者の「至らなさ」に由来するとして、その担当者の「至らなさ」がなにか外にある要因に由来するのか否かを見極める前に、早急にその「至らなさ」を属人的なものとして結論づけてしまうとしたら、あるいはそれこそが愚虜に由来するかもしれない。
許容するというのは、バッファを設けるということだろう。それは時間的なバッファだったり、心理的なバッファだったり、物理的なバッファだったりする。判断を急ぐ必要がある場面は多々ある。しかし「判断が早急であること」と「早急に判断できること」は関連性こそあれ異なる概念である。
他者の「至らなさ」を許容すること、自身の「至らなさ」を許容すること。感情のままに糾弾することは、改善を求めることには直接つながらないと思うし、改善を求めるには許容することがまず必要になると思う。
他者を許容すること、他者の行為に意図を見出すことだけではなく、自身を許容すること、自身の行為に意図を見出すことを考えている。
往々にして僕は自身について無頓着であり、同時に興味を持ちすぎるところもある。それがなにかしら意味のある行為なのかはわからないが、なるべくフラットな目で自他ともに許容することを忘れないようにしたい。
たとえばまとまりのない文章を書いてしまうところとかも。