論点放棄 #5
ずっと「自分だけがよくわかっていない」のなかを生きている。
僕は固有名詞を覚えるのが苦手で、小さいころから周りの子どもたちが語るあれやこれを「どこか知らない場所に、なにか知らないものがあるんだなあ」と聞いていた。車の種類、テーマパークの名前、スポーツ選手、などなど。
幼少期の我が家では、見ていいテレビ番組は姉弟で合わせて三つと決められていた。映るチャンネルは限られていたし、どんな番組があるのかも知らなかった。
また、遠い町の幼稚園に通っていたり、小学生になってからは習い事があったりと、子ども向けの番組が放送されている時間帯はそもそも家にいないことが多かった。
世界への窓口がよそとはすこし違った形で開いており、級友とあまり話が合わなかったわけである。
僕はどちらかというと話を作る方だったので、それによって他者とのコミュニケーションが阻害されたかというとそうではないし、よく知らない話題は黙ってニコニコしながら頷くことでやり過ごしていた。
自分だけがよくわからないもので溢れた世の中でも、案外それなりに上手くやっていけるのである。それが幼少期に得た心持ちだ。
退屈があったかというとまったくそうではない。
母はよく図書館や科学館など知識欲のなかに連れていってくれたし、父は山や川など大自然のなかに連れていってくれた。
よくわからないままにPCを触ってみたり、ゲームや読書をしたりと、早々に夜更かしの習慣がついてしまうくらいには、そこかしこに楽しみがあった。
大人になったいまでも、自分だけがよくわからないものに囲まれている。
いまではテレビをまったく見ないし、動画サイトなどもあまり利用しない。
SNSを開いてみれば、どうやら有名人らしいよく知らないひとが、どうやら有名人らしいよく知らないひとを誹謗中傷したとか、そんな意味のかけらもない情報が煙のように流れていく。
そこに、たいした感情を抱くことはない。
大勢のひとと同じことをしなきゃだとか、他人に置いてかれないようにしなきゃだとか、そういう気持ちが欠落しているのだろう。
世の中には僕の知らないものごとがたくさんある。それは夜空に輝く星団のように手が届かなくて然るべきものである。
あるものはここからよく見えるかもしれない。あるものはここまで光が届かない距離にいるかもしれない。
手の届く範囲にあるものごとさえも、知り尽くすことはできない。そしてなにかを知らないことそれ自体は悪いことではない。
情報が氾濫すると言われる時勢においては、世間の流行に無頓着でいられる精神を持っていてよかったと思う。