中継地 #4
ひとつ休日を挟むたびに、表面で考えているものごとが変わる気がする。
予定のない週末は僕にとって珍しい。あちらこちら遊びまわるタイプではないと自認しているのだが、気付けば2ヶ月間ずっと休みの日には東京から出ているなんてこともある。
旅行から帰ってきたあと、以前考えていたことがなんなのか、すぐには思い出せなくなる。
自分はなにを作ろうとしていたのか、なにを始めようとしていたのか、意識の表層にあったはずのものが沈んで失せてしまっている。
定期的な予定として日々に組み込んでいる活動なら、生活とともに再開することができる。
しかし明示的に時間を確保しなければならない活動や、新しく始めようと思っていた活動については事情が異なる。能動的になるための鍵を紛失してしまえば、まずは能動的になるための鍵から作り直さなければならない。
仕事でも同じようなことが起こる。
前週の金曜日になにをしていたか、どんな論点があったのか、メモを見ないとまったく思い出せない。定常業務は身体に染み付いているので、チームの進捗が滞ってしまうことはない。しかしたとえば「休み明けにはここを改善しよう」というような前向きな決意は見事に霧散してしまうのである。
月曜日を迎えるたびに、自分が少し違う人間になったように感じるわけである。
僕はかなり気まぐれで、そして思いついたことをすぐに行動に移す。だから僕の部屋は「以前の自分」が作りかけた仕掛品で溢れかえっている。
「少し違う人間」になる前に完成させられなかったものを、「少し違う人間」になった僕が引き継ぐことはままある。
そうすると、なんともチグハグな魂が宿った依代ができあがることもあるし、僕のなかに一貫する部分が色濃く現れることもある。
創作などの趣味においては「自分の違い」がうまく作用することがあるわけだが、「人間が変わっていくこと」そのものとして捉えてみるとどうだろう。
ある時点で意識の表層を大きく占めるものごとがあり、週末を越えるごとに(正しくは遠出を終えるごとに)忘却する。
なにを忘却しようが、生活は続く。
意識の俎上になにもないとき、生活を主導しているのは僕の無意識である。
習慣に従ってなんとなく行動する。したがって意識が個をアイデンティファイするのであれば、生活をしているのは僕ではないのだろうか。
「この忘却」を明確に意識し始めたのは、ここ数年のことである。それは大人になることに付随するプロセスなのか、規則的な余暇がもたらす副作用なのかはわからない。しばらくそれについて考えてみようと思う。