論点放棄 #7
型というものに上手くハマれない。
殊に日本の伝統芸能においてはまず型を身体に覚え込ませてからそこから発展させることが修得の型とされている。序破離とかそういうやつ。
過去を振り返れば基礎というものを大切にしない期間が多かった気がするが、少なくともいまはそういう意味での型は大切にしているつもりである。
馴染むことができない「型」というのは、例えば「男だったらこうあるべき」とか、「就活はこういうふうに進めるべき」とか、より具体的な、知らぬ間にポストに溜まっていくダイレクトメールのような「型」だ。僕はそういったものを無視して生きてきた。
就活産業はくだらないと思っているし、他人が提供する成功の方程式の通りに行動して得られた結果を成功とは思わない。
子どもの頃から対戦ゲームが好きなのだけど、攻略サイトで勝ち方を調べるのではなく、何度もトライしてみてどうやったら勝てるかを学んでいく過程がゲームの楽しみだと思っている。
新しい取り組みにおいては「それがどういうゲームなのか」を把握するまでが楽しくてたまらない。
ただ、「型にハマりたくない」という気持ちがあるわけではない。
むしろ「型にハマりたくない」と言っているひとは往々にして「型にハマりたくないひとのテンプレート」とでも言うべき言動ばかりしているように思う。現実に、これまで何人もそういうひとを見てきた。
右に進みたくないから左に向かう、そういった単純な法則を標榜しているわけではない。
ふらふら歩いていたら知らぬ間に周りにひとがいなかったり、どう歩いても他人と歩幅が合わなかったり、そんな感じ。
それこそnoteにおいても「多くのひとに読んでもらえたらいいな」という気持ちはありつつも、「多くのひとに読んでもらう方法を教えます」という声は無視する。
だいたい、そういう「多くのひとに読んでもらうことを目的とした文章」を書きたいわけではないのだ。
ありのままで愛されたいと願うのは幼稚な願望だ、というのはそうなんだろうなあと思う。
ただこの場合、そもそも愛されるために文章を書くというのもおかしな話だ。まず文章を書きたいという気持ちがあり、その先で誰かに愛されればいいな、という微かな希望があるだけだ。
「誰しも承認欲求があり、それを満たすために行動する」という型が僕にはわからない、そんなところ。