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「平等」のやるせなさと、グラデーションの言語化

特定の事柄を見て、その点が恵まれている人への羨ましさから「やるせなさ」が募る日がある。
他者を見て、私もこの人が良かったと思ってしまう夜があった。だってこの人な方が明らかに人生がイージーモードじゃんと何度も思って来た。
「平等」という言葉を最高に嫌うくらいにこの世界は平等なんてものがない。そう感じてしまう。

生まれ育った環境、容姿、金銭に恵まれるか貧相を先に見るか、人に好かれる性格、嫌われる短所や誤解されやすさ、体型の悩み、コンプレックス、病気、親との関係など、それぞれ、本当に人それぞれ、見てきた景色・感じて来た体感が違いすぎる。
前提条件が違う者へおなじ言葉を同じ温度で届けたくても無理が生じる。決してズレなく届くわけがないからだ。
言葉に対するニュアンスや捉える重力だって、人それぞれ違う。違いすぎるんだ。

たとえば、ある事に悩んだことがある人が放つ言葉と、体験を通しては知らない人が話す言葉ではやはり纏う色が違う。
そして受け取り手も、体感として理解できないことは全く心に響かないため除外して読むだろう。
そう考えていくと、どんなことでも自分以外の人間へ自分の言葉と想いを完全に齟齬なく伝え切るなんてことは、到底出来ないのかもしれない。
同じことを話していても、放つ人によって届く人も違うのだろう。
だから人は最後に“言葉に出来ない”に行き着くのかな。
やるせないこの世界を今日も空虚な心で眺めている人がいる。祈りも願いも届かない、皆んな自分のことだけで必死だ。だけどそんな自分のことすら、一番分かっているようで実は見えていない。

だが伝え切れないと分かってはいながらも、伝えるということにおいて、言葉以上の手段がない。
だからなるべくたくさんの表現を身につけたいと思う。色んな色や温度感の言葉を、グラデーションに位置する感情や感覚を言語化できる者でいたい。無限に広がる微妙な色合いを伝えられるかは分からなくても、表現の色をたくさん持っている豊かさを追求することは、諦めたくない。

今、自分が発信した言葉は、どんな人の心に響いているんだろうな。

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